額田氏の本拠地で茨城県最大級の城

額田城ぬかだじょう

額田城 提供元:額田城跡保存会 様


1.城データ

築城年

  • 1249~1256年

築城者

     
  • 佐竹義直

別名

  • 不 明

天守構造

  • 無し

城郭構造

  • 平山城

遺構

  • 土塁、空堀

比高

  • 15メートル

主な城主

廃城年

  • 1591年

概 要

鎌倉時代に佐竹氏5代目当主・佐竹義重の次男・佐竹(額田)義直が築城し、その後拡張を続けて戦国時代に現在の規模になったといわれている。
城内には四つの城郭が構築され地方の小領主としては規模が大きいものである。

立 地

額田城は久慈川右岸の標高29mの台地上に築かれた。台地南側に曲輪側展開し、城の南崖下には低湿地が広がり天然の水堀となっている。

県内最大規模の中世城郭

額田城の規模は南北湯約800m、東西約200mあり県内屈指の面積を誇る。城内はいくつもの堀と土塁で区切られ、郭を構成している。主要な郭は「本丸」、「二の丸」、「三の丸」、「阿弥陀」の郭である。
本丸は東西・南北ともに約15mあり周囲を堀がめぐっている。本丸と二の丸を画する空堀は、約21m、深さ9mという圧巻の規模である。本丸東西の堀は湧水により泥沼化し、外敵の侵入を防いでいる。
郭内は中央やや北側に天守跡といわれる土壇が所在している。

二の丸は東西約250m、南北約100mあり周囲は堀で囲まれている。郭内は段築により三つに区画されている。
三の丸は東西約250m、南北約170mあり、土塁が北側と東西に確認でき、二の丸との間に土橋が架かっている。
阿弥陀の郭は東西約450m、南北約200m誇り、北側・東側、南側は湧水を利用した天然の堀となっており、西側のみ人口の空堀を設けている

本丸・二の丸・三の丸に堀と土塁が蛇行しながら複雑に絡み合い、現在では横矢掛など外敵を拒む仕掛けが要所要所に設けられているのが確認できる。

三つの額田氏

鎌倉時代から戦国時代まで、額田城主は一環して額田氏であった。しかし実際は佐竹系額田氏、小野崎系額田氏、江戸系額田氏という三つの系統に偏移しており、その節目に争いごとがあったといわれている。

額田城の廃城

1590年、秀吉による小田原征伐攻めに参陣し所領を安堵された佐竹氏は長年の悲願であった領国統一に乗り出す。江戸氏を初め鹿島、行方郡の豪族を次々に滅亡させ、最後に額田照通に謀反の疑いがあるとして額田城を攻撃した。
しかし、額田城の守りは堅く安易に落ちなかったため、佐竹義宣は石田三成を通じて降伏を勧告したが額田照通はこれを拒否する。
佐竹義宣は額田城に総攻撃し、激戦のすえ落城した。額田照通は伊達政宗の下に逃れたが。こうして額田城は廃城した。

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