檜山安東家と湊安東家の内紛

【湊合戦】

湊合戦とは?

安東氏(近世秋田氏の祖)一族の檜山安東氏と湊安藤氏との間で繰り広げられた内紛。
一次史料に乏しく軍記物など後世編纂された諸史料に頼る部分が大きいため詳細は不明な部分が多い。従来は元亀元年(1570年)、天正17年(1589年)の2度起こったとされてきた。(近年の研究で3回起きた可能性あり)。
とくに1589年の湊騒動が激しく「湊合戦」とも呼ぶ。

基本情報(2回目)

期 間

1587年

場 所

出羽国湊城付近(現・秋田県秋田市土崎)

きっかけ

槍山安東当主・安東愛季が病死したことによる湊安東家の反乱

結 果

檜山安東家が秋田郡域を確固とした支配下置く

安東(槍山)

VS

安東(湊)

安東(槍山)

参加勢力

安東(湊)
南部氏
小野寺氏
戸沢氏

秋田実季

主な武将

豊島通季
小野寺義道
戸沢盛安

不 明

兵 力

不 明

秋田一国を完全支配する

損 害

追放され南部家の家臣となる

合戦場所

簡単に解説

安東愛季が死没したことで湊安東家の安東高季が南部氏、小野寺氏、戸沢氏と手を結び謀反を起こす。愛季の嫡男・実季は檜山城まで追い込まれるが由利の豪族らが味方いて退勢を挽回し、安東高季の本拠地・湊城を攻め落とした。

 戦までの経緯

1587年安東愛季が病死,湊安東家の安東高季が謀反を起こす!

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愛季は戦国大名としての地位を確立しつつあったが、天正15年(1587年)、角館城主戸沢盛安と戦った際、北淀川の陣中で病死した仙ことで、均衡がくずれた。愛季の嫡子実季(12歳)が後を継ぐと、茂季の子である高季(豊島通季)は「湊安東氏の復興」を唱えて南部氏、小野寺氏と連絡し、戸沢氏とも手を結んで天正17年(1589年)2月、実季に対し反乱を起こした[2]。史料によっては天正16年(1588年)とするものもある。

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 開 戦

安東高季を擁する豊島勢は湊城を奪い、秋田郡一帯の国人衆を組織し、実季を檜山城に籠城させるなど窮地に追い込む。

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高季を擁する豊島勢は一時湊城を奪い八柳氏、永井氏などの秋田郡一帯の国人衆を組織し、実季を檜山城に籠城させるなど窮地に追い込んだ。実季側は鉄砲わずか300挺で檜山城を守り抜いている。檜山籠城は5か月あまりにおよんだ。

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 槍山安東の逆襲

由利地方の豪族らを味方にし退勢を挽回、湊安東家の本拠地。湊城を攻め落とす。

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篭城戦いの最中、南部氏が比内(秋田県内陸北部)に侵攻してきたため一旦和睦となった。この隙に実季方に赤尾津氏や羽根川氏ら由利十二頭の勢力が参戦し湊城を攻める動きを見せたことから、豊島勢は挟み撃ちに会い壊滅、湊城は再び実季の手に落ちた。豊島勢の残党は「寺内の合戦」に勝利し一矢報いたものの高季(通季)が敗走したことから四散した。

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 その後の情勢

実季は秋田郡域を確固とした支配下に置き、安東高季は逃走し南部家の配下になる

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その後、戸沢・小野寺連合軍との「峰の山合戦」を経て和議がまとまり、実季は秋田郡域を確固とした支配下に置くこととなった。通季は南部氏のもとへ逃れてその家臣となった。

この戦いは惣無事令違反と豊臣秀吉に見なされたが、実季の石田三成への工作により家の存続を許され[3]、出羽秋田5万2,000石の安堵を認められた。また、没収された領地のうち2万5,000石は太閤蔵入地とされ、実季はその代官となった。一方、通季も小田原征伐の際に南部信直に伴われて家名再興を願い出たが、増田長盛によって出仕を阻まれた[4]。実季は、居城を湊城に移し、「秋田城介」を名乗り、安東から秋田へ改姓した。

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