河内源氏系甲斐源氏の流れを汲む甲斐守護だが織田家によって滅亡する

武 田たけだ

武田菱

武田菱

家系図

年 表

 1582年

織田・徳川・北条による甲州征伐により武田家が滅亡

 1581年

韮崎市中田町中條に新たに新府城を築城

 1578年

越後上杉氏の御館の乱に介入する

 1577年

高天神城を徳川家に奪還される

 1575年

長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗退

 1574年

高天神城を陥落させて東遠江をほぼ平定する

 1573年

三方ヶ原の戦いで徳川家に勝利
信玄が死没し家督を勝頼が相続

 1572年

二俣城・岩村城を攻略

 1571年

甲相同盟の成立
大規模な遠江・三河侵攻を行う

 1570年

駿河を制圧

 1569年

小田原城を一時包囲するが失敗、撤退の際には三増峠の戦いで北条勢を撃退した

 1568年

駿河侵攻を開始
相駿三国同盟の破棄

 1567年

信玄の嫡男・義信が廃嫡される

 1566年

箕輪城を攻略し上野西部を支配する

 1564年

第五次川中島の戦いが勃発

 1561年

第四次川中島の戦いが勃発

 1554年

相駿三国同盟が成立する

 1553年

村上義清を攻め東信地方を支配下に置く
第1次川中島の戦い

 1551年

砥石城を攻略する

 1550年

小笠原氏を攻め中信地方を支配下に置く

 1548年

村上義清との戦いで敗れる(上田原の戦い)

 1547年

甲州法度之次第(信玄家法)を定める

 1546年

武田勝頼が誕生

 1545年

高遠城を制圧
川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁する

 1542年

諏訪に侵攻し制圧する

 1541年

晴信が信虎を追放し家督を継ぐ

 1540年

信濃佐久郡を所領に納める

 1537年

今川家と婚籍関係になる(信虎の長女が義元の正室になる)

 1536年

今川義元と同盟を結ぶ(甲駿同盟)

 1535年

今川攻めを行う
諏訪家と同盟

 1533年

武田晴信の正室に上杉朝興の娘を迎える(後に死去する)

 1528年

信濃諏訪攻めを行うが敗退

 1526年

梨の木平で北条氏綱勢を破る

 1525年

上杉憲寛とともに北条家の相模津久井城を攻撃しする

 1524年

関東管領上杉家に支援のため北条領の相模国奥三保へ侵攻する

 1521年

今川氏との抗争が再発
年内には今川勢を駿河へ駆逐する

 1519年

躑躅ヶ崎館の建設に着手

 1518年

本拠地を「甲府」に移動

 1517年

今川氏と和睦が成立

 1516年

今川氏が甲斐へ侵攻し勝山城を占拠

 1510年

小山田氏を従属させる

 1509年

都留郡へ侵攻

 1508年

信虎が坊ヶ峰合戦で信恵方を破り、甲斐国内の統一

 1507年

家督争いの最中、信縄が死去
家督を信虎が継ぐ

 1505年

武田信昌が死去すると家督争いが再発
家督を・義通が継ぐ

 1498年

伊勢盛時(北条早雲)が家督争いに介入してきたため家督争いが一時和睦状態となる。

 1495年

伊勢盛時(北条早雲)が侵攻し抗争が勃発

 1494年

武田信虎が誕生する

 1492年

信昌が家督を信縄に譲る。
しかし、長男・信縄と次男・信恵の家督争いが勃発

 1472年

信濃佐久郡の国人大井政朝が武田領に侵攻するが撃退する

 1471年

武田信縄が誕生

 1465頃

室町幕府の指令で今川義忠と共に関東出陣を命じられる

 1455年

武田信昌が家督を継ぐ

家 紋

武田菱

武田菱

出 自

 武田氏は清和源氏出身で、森羅三郎義光の三男・武田冠者義清を祖としている甲斐源氏の宗家である
その発祥地については一般に甲斐国北巨摩群武田村(源・山梨県韮崎市)といわれているが。現在、一番有力な説は常陸の武田郷(現、茨城県ひたちなか市武田)とする説が有力です。

 信義(義清の孫)の時代になると似仁王の命令に応えて甲斐源氏を率いて挙兵し、木曽義仲および源頼朝に兵をおくり戦功を挙げた甲斐守護を任命され甲斐に根付いた。

南北朝時代のはじめは北条方についたが、やがて足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、陸奥・伊豆・駿河・若狭・安芸・薩摩などに所領を広げ同族を置いた。

室町時代後期

室町時代の武田氏では、信満のころに「上杉禅秀の乱」(上杉禅秀が鎌倉公方・足利持氏に反逆)が勃発。
信満上杉禅秀は親戚関係(禅秀の妻は信満の娘)だったため信満は禅秀方に加わった。しかし、信満は鎌倉府の軍勢にあい自殺した。
 持氏は甲斐の国人領主逸見有直を甲斐守護としたが、室町幕府が認めなかったため、武田信長の子・伊豆千代丸が守護となった。しかし、幼少だったため伊豆千代丸の命を聞かない守護代・跡部氏の動きなどもあって甲斐一国は安定していなかった。

戦国時代初期

戦国時代に突入すると信満の嫡男・信重が甲斐守護として入国し、国人領主・逸見有直を討って甲斐の安定化に成功した。以下、信守、信昌、信縄と続き、その子、信虎(信直)に続く。
 信昌が隠居すると、信縄の弟である油川信恵に家督を譲る意志を示し、家中は信昌・信恵派と信縄派に分裂する後継者争いが勃発した。

信虎の時代

信縄が死去しその嫡男・信虎の時代になると勝山城の戦いで信恵派を滅亡させ武田家の統一に成功する。
さらに、甲斐国の反武田派を次々に従属させ甲斐統一を成し遂げ居城をそれまでの石和館から甲府へ移転し躑躅ヶ崎館を建設、城下町(武田城下町)を整備し、有力国衆ら家臣を集住させた。

信玄の時代

信虎の嫡男。晴信(信玄)が父・信虎を駿河の今川義元のもとに追放し自立すると、翌年から信濃の攻略に着手する。
信濃に領国を拡大した信玄は隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで信濃侵攻を進め、北信濃地域の領有を巡って越後の長尾景虎(上杉謙信)と争った。
今川が衰退した後は、同盟を破棄して駿河国へ侵攻した。そのため親今川派で義元の娘と結婚していた嫡子・義信を殺害した。  また信玄は分国法「信玄家法」を制定し、信玄堤、甲州金など領国整備を行っている。

勝頼の時代

室町幕府第15代将軍・足利義昭の要請に応じて上洛を開始したが、信玄が病死したため、武田軍は甲斐国に撤退した。
最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国および上野国・遠江国・三河国・美濃国・飛騨国・越中国の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有した。武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)

主な本拠地

  • 躑躅ヶ崎館【山梨】

武 将 (名前クリックで詳細)

武田信昌
(1447-1505)

甲斐武田氏第16代当主。甲斐乱国の原因を作った人物。

葛山氏元
(1520-1573)

葛山貞氏の子。葛山氏広の養子で葛山城主。家臣屋敷分の年貢減免や領内社寺の保護など、自領内に独自の政策を施した。主家滅亡後は武田氏を頼るが、謀反の疑いで処刑される。家督は武田信玄の六男・信貞が跡を継いだ。

葛山信貞
(?-1582)

武田信玄の六男。東駿河の名家「葛山家」へ養子入りし葛山の家督を継ぐ。その後、織田信長の甲州征伐により甲斐善光寺において自刃した。

御宿友綱
(1546-1582)

東駿河の名家「葛山家」の一族。父は葛山綱春。武田信玄に若くして仕え、医師でもあり信玄の侍医を務めた武田家滅亡後は北条、徳川と仕えた。

御宿政友
(1567-1615)

御宿友綱の嫡男。武田家の滅亡後には北条家、結城秀康に仕えた。しかし、秀康の子・忠直の代に出奔して大坂城に入城、大坂夏の陣において戦死した。