北条氏に破れ去った山内上杉家事実上最後の当主

上杉 定正うえすぎ さだまさ

上杉定正像

徳雲寺:上杉定正の墓
参照:グルコミ様

  ポイント

  • 扇谷上杉家当主
  • 山内上杉家を支援し古河公方・足利成氏と戦う
  • 謙信の死後、御館の乱で景勝に殺される

誕生・死没

  • 誕生:1443年
  • 死没:1494年
  • 享年:51歳
  • 墓所:厚木市七沢徳雲寺

同年代の人物

名 前

  • 扇谷定正(南総里見八犬伝内にて)

官位・幕職

  • 修理大夫
  • 相模守護

所 属

親 族

上杉持朝
長尾景信の正室
兄弟 上杉顕房(兄)、 三浦高救(兄)
   上杉憲忠の正室、 叔彭梵寿
   上杉朝昌(弟)、吉良成高正室、大石房重正室
大石顕重の室、上杉憲勝?上杉朝良(養子)

略 歴


1443年 0歳  上杉持朝の子として誕生
1449年 6歳  鎌倉公方が復興
兄・顕房が扇谷上杉家当主となる
 
1455年 12歳  享徳の乱が勃発
兄・顕房が戦死
家督を甥・上杉政真(顕房の嫡男)が継ぐ
 
1473年 30歳  上杉政真が戦死
扇谷家当主となる
 
1476年 33歳  山内家臣の長尾景春が反乱を起こす
 
1477年 34歳  長尾景春の強襲を受け上野国へ敗走
 
1482年 39歳  長尾景春の乱が鎮圧
古河公方と和睦(この和睦がきっかけで山内上杉家と不仲になる)
 
1486年 43歳  太田道灌を暗殺
 
1488年 45歳  上杉顕定(山内上杉)の攻撃される(長享の乱の勃発)
 
1493年 50歳  伊勢宗端(北条早雲)が伊豆国を支配
北条早雲と手を結ぶ
 
1594年 51歳  北条家と共に武蔵国に出陣して上杉顕定と対陣
死 没

概 要

1473年、扇谷家当主だった甥・上杉政真が世継ぎが居ないまま戦死(五十子の戦い)すると、代わりに定正が扇谷上杉家を継ぎ、山内上杉家を助け、古河公方・足利成氏と戦う。その後、家臣の太田道灌の活躍により勢力を拡大したが、道灌の力が強大化することを恐れて撲殺、のちに山内上杉家と対立し相模・武蔵の各地で戦った。(長享の乱)

誕生と扇谷上杉家の家督相続

1443年(1446年?)、扇谷上杉家当主・上杉持朝の三男として誕生する。
享徳の乱で扇谷上杉家の家督を継いだ兄・顕房が戦死、さらにその後家督を継いだ甥・上杉政真も1473年の五十子の戦いで古河公方に敗れて戦死、政真には子がなかったため太田道灌ら扇谷家老臣達の評定の結果、政真の叔父にあたる定正が家督を継いだ。

享徳の乱と長尾景春の乱

扇谷家の家督を継いだ定正は関東管領・山内上杉家・上杉顕定と共に五十子陣に着陣して古河公方・足利成氏と対峙した。
しかし、1476年、山内家の有力家臣・長尾景春が反乱を起こし、翌年1477年に定正と顕定が在陣していた五十子を急襲、両上杉は大敗を喫して上野国へ敗走した(長尾景春の乱)。

上杉方は危機に陥るが、扇谷家家宰・太田道灌の活躍によって豊島氏を初めとする各地の長尾景春方を打ち破り、定正も転戦して扇谷家本拠の河越城を守った。

その後、太田道灌の活躍もあって1482年「長尾景春の乱」は鎮圧、古河公方・足利成氏とも和睦が成立したが、この和睦が後の長享の乱のきっかけになってしまう。

道灌暗殺

山内上杉家と不仲に

扇谷家臣・道灌の活躍で反乱は鎮圧、古河公方・足利成氏との和睦により享徳の乱が終結したが、特に見せ場もなかった関東管領である顕定と山内上杉家の権威は落ち込み、逆に道灌の主君である扇谷上杉家の上杉定正の権威が高まった。

定正は自家が活躍したのに古河公方との和睦を山内家主導で進められたことに不満を抱き、さらに顕定も勢力を拡大していく定正に対し、危機感を覚え両上杉家は次第に不仲になっていく。

道灌暗殺

乱の平定に活躍した家宰・太田道灌の声望は絶大なものとなっており、定正の勢力が拡大していくことを危惧した顕定は定正に対して『道灌の才能はやがて上杉一門を危険に陥れる』と警告して定正の不安を煽った。

定正は道灌を遠ざけるようになり、道灌も自分の忠義を評価しようとしない定正に不安を抱き始め、万一に備えて息子資康を足利成氏への人質に差し出していた。 そして1486年7月26日、定正は太田道灌を相模糟屋館に招いて暗殺。
道灌は死に際に、「当方滅亡」と嘆いたという。

道灌謀殺により道灌の子・太田資康を初め多くの家臣が扇谷家から上杉顕定の許に離反その結果、両上杉家との間で戦がいつおきてもおかしくない状況だった。
特に相模三浦氏では三浦高救(定正の実兄)が定正を憎み自らが扇谷上杉家当主になろうと企てたが先代当主である養父・三浦時高に追放されるという事件が発生している。

長享の乱勃発

上杉顕定の侵攻

1487年、山内上杉家・顕定と実兄の上杉定昌(越後守護)は扇谷上杉家に通じた長尾房清の下野国足利庄勧農城(現在の栃木県足利市)を奪い、扇谷領へ侵攻、長享の乱が勃発した。

定正は長尾景春を味方につけ、さらに古河公方・足利成氏とも同盟を結んでこれに対抗。
戦上手の定正は「長享三戦」と呼ばれる「実蒔原の戦い」、「須賀谷原の戦い」、「高見原の戦い」で勝利して大いに戦意を高め、「5年のうちに上野・武蔵・相模の諸士は、自分の幕下に参じるであろう」と豪語した。
しかし、太田道灌誅殺後の家臣の離反は続き、逆に連敗した山内上杉陣営は後方に越後・上野国両国を有しており、定正は山内上杉領へ押し込めずにいた。

後方の安全確保
このときの伊豆国は山内上杉陣営勢力とこれに支えられた堀越公方の勢力下であった。
定正は、後方(伊豆国)の安全確保のため、駿河今川氏の客将であった興国寺城城主・伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻を手引きし、同盟を結び対顕定討伐へ協力依頼を行った。

最 後

北条氏と手を結んだ定正は鉢形城の上杉顕定に総攻撃を仕掛けようとするが重臣である三崎城の三浦時高と小田原城の大森氏頼が相次いで亡くなり、その後継を巡って三浦・大森両氏は内紛状態に陥ったため、仕方なく北条早雲と共に武蔵国高見原に再度出陣したが定正は急病により死去した。

その後の扇谷上杉家

その後、扇谷家は定正の甥で養子の朝良が跡を継ぐが定正・大森氏頼・三浦時高の実力者三将が死没したことにより扇谷家の力は低下、北条早雲とその子・氏綱の侵攻に押され、扇谷家は徐々に所領を侵食されていく。

逸 話

誕生年

事典類は1443年としているが。黒田基樹氏作の『扇谷上杉氏と太田道灌』で1446年としている。

道灌暗殺理由

道灌の暗殺理由については諸説ある。
「上杉定正消息」では家政を独占する道灌に対して家臣達が不満を抱き、道灌が(扇谷家の主君にあたる)上杉顕定に逆心を抱いたためと語っている。これは定正の言い分で、実際には、家中での道灌の力が強くなりすぎ定正が恐れたとも、扇谷家の力を弱めようとする上杉顕定の策略に定正が乗ってしまったとも言われる。

死因

定正の死因について通説では「病死」とされているが、定正が荒川を渡河しようとした際に太田道灌の亡霊が定正を落馬させ殺したとする説が長岡市にある定正院が菩提所と伝えられている。