津軽家存続のため石田三成側についた

津軽 信建つがる のぶたけ

結城晴朝

 ポイント

  • 津軽為信の嫡男
  • 豊臣秀頼に小姓として仕える
  • 津軽家存続のため石田三成側につく

誕生・死没

  • 誕生:1574年
  • 死没:1607年
  • 享年:34歳

同年代の人物

名 前

  • 平太郎(通称)、宮内(通称)

所 属

官職・役職

  • 官位:宮内少輔、宮内大輔、左馬頭

親 族

略 歴

1574年 1歳  津軽為信の嫡男として誕生
 
1600年 26歳  関ヶ原の戦いにて西軍(石田三成)についた。
 
1602年 28歳  天童事件が勃発
 
1607年 34歳  死 没

概 要

津軽為信の嫡男。父の命により大坂城の豊臣秀頼に小姓として仕え、津軽家存続のため関ヶ原の戦いでは西軍(石田三成)についた。その後父の命によりキリシタンとなり。京にて病死した

出生と幼少期

1574年、陸奥国津軽地方の戦国大名・津軽為信の長男として誕生。
幼少期は父の命により大坂城の豊臣秀頼に小姓として仕えるた

関が原合戦

関ヶ原の戦では御家存続のため信建は西軍に属し父・為信は東軍側へ属し「家中二分による生き残り策」を行った。
また、西軍が敗れると三成の次男・重成らを若狭国からの蝦夷貿易ルートで津軽へ逃た。

関が原合戦後

関が原合戦後、信建は京・大坂に留まり、津軽家の外交要員として活動していた。これは公家たちとの盛んな交流が公家側の日記に残っている。
また、父とは別に直臣団を持ち、津軽建広・津軽建友ら側近を軸に藩政に外交に精力的に活動していた。
その後、父の命により弟・信枚(為信三男)と共にキリシタンとなっている。

嫡男・熊千代と天童事件

1602年のこと、父・為信が誤って手元に預かっていた孫・熊千代の顔面に大火傷を負わせてしまい熊千代をかくまってしまいます。
なかなか熊千代が戻らない事を不信に思った信建は熊千代を返すようにと家臣の天童家(名前不詳)を使えにだします。しかし、為信は天童家を追い返してしまいます。これに起こった信建は天童家の一族を処刑してしまいます。
これに怒った天童一族が信建に反抗して城内で乱闘、信建は命からがら逃げる一幕もあったが、最終的に天童一族は討伐された。(天童事件)
ちなみにこの事件がきっかけで(天童家が簡単に堀越城の本丸の突入に成功した)為、新城・高岡城(弘前城)への本拠地移転が早まったといわれている。

死 没

1607年、京にて病を発症した。同じ頃津軽にて、同じく病を患った為信が、信枚を伴い京まで見舞いに駆けつけたといわれている。そして同年に信建は病死。
その2ヵ月後の12月、為信も死去した。

信建は父より先に死去したこともあり、正式に代を譲られておらず、為信の跡は弟の信枚が継ぐことになった。ところが、信枚派と信建の遺児熊千代(大熊)を擁立する建広ら旧信建直臣団派閥とに家中が二分し、お家騒動が起こった(津軽騒動