戦国時代を終わらせた江戸幕府の創始者

徳川 家康とくがわ いえやす

徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)

 ポイント

  • 松平広忠の子で松平家9代当主。徳川御三家の始祖。
  • 桶狭間合戦の後に今川家から自立
  • 織田家と同盟を結び、信長亡きあとは秀吉に従属し勢力を拡大
  • 関ケ原の合戦で石田三成を破り征夷大将軍となる。




豊臣秀吉への臣従

☆ 小牧・長久手の戦い

信長死没すると、羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長の次男・織田信雄と同盟を結び、1583年には織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、勝家と手を結んだ信長三男・織田信孝を自害させることで、さらに影響力を強めた。
家康は賤ヶ岳の戦いで勝った秀吉に、戦勝祝いとして茶器の初花を贈るなど関係は良好であった。
しかし、織田信雄が、秀吉と対立するようになると、信雄は家康に接近して秀吉に対抗することとなった。
1584年、信雄と秀吉との間で合戦が勃発すると、家康は尾張国へ出兵し信雄と合流した。徳川軍は酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は尾張国小牧(小牧山)に着陣した。
秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると楽田に布陣し、森長可・池田恒興らが三河国に出兵した。そして、長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した(小牧・長久手の戦い)。
この戦いは「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」といわれた。

小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま終戦した。その後、秀吉と徳川・信雄は、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とすることで、秀吉と家康・信雄は和睦した。

☆ 第一次上田合戦

秀吉が関白になり、天下人になると、家康は東国において武田遺領の甲斐・信濃を含めた5ヶ国を領有し相模国の北条氏とも同盟関係を築いていたが、北条氏との同盟条件である上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲に対して、沼田を領有していた信濃国上田城主・真田昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗した。
これに対して家康は大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉らの軍勢を派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵している(第一次上田合戦)。

☆ 秀吉への従属

豊臣家の勢力が増す中、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方に従属するという噂は北条氏との関係に緊張を生じさせていた。
1586年に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の従わせようとするが、家康は臣従要求を拒み続けた。そんな家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、家康はこれを室として迎えいれ、秀吉と家康は義兄弟となった。
さらにしばらくすると今度は秀吉が生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、遂に家康は浜松を出立し上洛た。
家康は大坂に到着すると、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓ったという。

豊臣政権時代

★ 駿府左大将

 1586年、家康は本拠地を浜松城から駿府城へ移した。これは出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたためといわれている。
また、翌年の1587年には朝廷から従二位・権大納言に叙任され、「駿河大納言」と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴の名字も下賜された。
同年、豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国)の監視が託され、秀吉の推挙もあり、朝廷から左近衛大将および左馬寮御監に任ぜられ、家康は「駿府左大将」と呼ばれた。

★ 北条家と小田原征伐

関白の地位を手にし天下人となった豊臣秀吉だが、関東ではいまだ北条家が上洛せず抵抗していた。
これに対し北条家と同盟関係にあった家康は、北条家に対し度々秀吉への恭順を促すが、北条氏直は秀吉に臣従することはなかった。
1590年、家康は三男・秀忠を秀吉の人質として上洛させ改めて秀吉への臣従の意思を明確にした。これにより、北条氏と事実上断交し、これを受けた秀吉は北条氏討伐(小田原征伐)を開始した。
この戦いで家康も、豊臣軍の先鋒として出陣し北条家の降伏に尽力した。

★ 本拠地を江戸に

小田原征伐後、家康は秀吉から関東の安定と奥羽の抑えを期待し、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国から、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州への移封を命じられた。
家康はこの移封によって119万石から関東250万石へ大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失ったほか、当時の関東には北条氏の残党などにより治安が安定していなかった。また、北条氏は極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であったといわれている。
また、家康は本拠地を北条氏が本拠としていた小田原城ではなく、秀吉の積極的な意向から江戸城を居城とし、大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱などの有力な家臣を重要な支城に配置した。
1596年ごろには秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる。これ以後は江戸の内府と呼ばれるようになる。

★ 秀吉の死没

1598年、秀吉は病に倒れるた。秀吉は自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を定め、五大老の一人に家康を任命した。
その後、秀吉が没すると五大老・五奉行は当時侵攻していた朝鮮からの撤退を決める。この朝鮮出兵に家康を含め東国の多くは兵は朝鮮に渡海しておらず、結果的に後の関ケ原の戦いで東軍につく勢力は、兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができたといわれている。





秀吉の死後

★ 五大老筆頭

秀吉が死没したため、内大臣であった家康が秀吉臣下で朝廷の官位で最高位となった。また、秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていた家康は、名実ともに五大老筆頭となった。
さらに家康は生前、秀吉によって禁止されていた合議による合意を得ない大名家同士の婚姻を伊達家や福島、蜂須賀家等と積極的に行った。

★ 秀吉家中の分裂

家康の勝手な行動に豊臣家の危機感を覚えた石田三成は家康と対立。豊臣家中で武闘派(家康)VS閣僚派(三成)の政権争いが勃発した。
この仲介役となった前田利家は家康と誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は後述する伏見城治部少丸の直下にある自身の屋敷から、対岸の向島城へ移ることでこの一件は和解となった。
しかし、前田利家が病死すると、福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた。
なんとか大坂を脱出し三成は伏見城内治部少丸にある自身の屋敷に逃れたが、家康の仲裁により三成は奉行の退任を承諾して佐和山城に蟄居することになり三成は失脚した。

関ケ原の戦い

★ 会津征伐(直江状)

1560年、会津では上杉景勝が軍備を増強する等の不審な動ききに加え、上杉家の家臣で家康とも繋がりのあった避戦派の藤田信吉、栗田国時の二人が直江兼続に襲撃された。
この知らせを受けた家康は、景勝の元へ問罪使を派遣しが、既に徳川との一戦を固めていた兼続が、『直江状』と呼ばれる挑発的な文書を返書として送ったことから家康は激怒。景勝に叛意があることは明確であるとして会津征伐を宣言した。
また、この戦いは天皇、豊臣家から支援があったことからこれにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」という大義名分を得た形となった。

★ 伏見城の戦い

6月、家康は上杉討伐のため大坂城・京橋口から軍勢を率いて出陣した。6月23日には浜松、24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅い進軍を行っている。
7月には家康の出陣を待っていた、石田三成が大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占拠されていた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、五大老の一人・毛利輝元を総大将として擁立した。
三成は挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻め、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い)。

★ 小山評定

伏見城を攻略した三成らは伊勢国、美濃国方面に侵攻、家康は下野国小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。
家康は重臣たちと協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、こうして家康を総大将とした東軍、徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人が結成されていった。俗にいう「小山評定」である。

★ 進 軍

家康は、徳川秀忠を大将とした一隊を宇都宮城から中山道を進軍させ、結城秀康には上杉景勝、佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託し、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かった。それでも家康は、動向が不明な佐竹義宣に対する危険から江戸城に1か月ほど留まり、7月24日から、9月14日までの間に関ヶ原合戦に関する内容の文書だけでも、外様の諸将82名に155通、家康の近臣に20通ほどの文書を送っている。
正則らの先陣は、清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る岐阜城を落とした。

★ 開 戦

江戸城を出陣した家康は清洲を経て美濃赤坂に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲し、それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れた。(杭瀬川の戦い)
9月15日午前8時ごろ、関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午ごろ西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。
さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった(関ヶ原の戦い)。

その後、東軍は三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、逃亡していた三成を捕縛。三成は小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑された。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の全国に散在していた直轄地)は東軍の諸将に恩賞として分配された。
その結果、豊臣家は摂津国・河内国・和泉国の3か国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。

征夷大将軍

★ 征夷大将軍の準備

関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた家康は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図の改姓を行った。
また、豊臣秀次が解任されて以来空いたままになっていた関白職には九条兼孝が家康の推挙により任じられた。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻った。

★ 征夷大将軍任命
1603年2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、右大臣、源氏長者、淳和奨学両院別当に任命した。またこの頃の徳川家の領域は一門・譜代大名の所領も含めると、東は岩城領から関東一円、北は南信濃から美濃国・越前国、西は近江国・山城国・大和国と北伊勢の桑名領をほぼ一円支配するものであった。
しかし、その2年後の1605年、家康は将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、秀頼はこれを拒絶。結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった。

駿府の大御所

★ 

1607年には駿府城に移って、東国大名や幕府の制度整備を進める「江戸の将軍」秀忠に対して、「駿府の大御所」として主に朝廷・寺社・西国大名・担当したほか、李氏朝鮮との国交を回復や平戸にオランダ東インド会社の商館やイギリス商館の開設を許可し、外交面も担当していた。

大阪の陣

★ 大阪の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件

豊臣氏は家康の勧めで、地震等で滅失してしまった方広寺大仏(京の大仏)及び、大仏殿の再建に着手し、1614年に大仏の開眼供養を行うことにした。
しかし、梵鐘の銘文中に刻まれた「国家安康」という文字を「家康の名を分断して呪詛する言葉」また、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の繁栄を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難した。
これに対して豊臣氏は、家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し弁明を試みたが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。
且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのである。

★ 大阪冬の陣

1614年11月15日、家康は20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲した。しかし、力攻めはせずに大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うに留めた。
徳川軍は各地の局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは大敗を喫した。さらに、徳川軍は午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒・和製大砲)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとした。
この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。強固な城郭を武力で落とすことに固執せず、淀殿や女官を心理的に疲弊させる策略を用いることで「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める」という徳川に有利な条件での和睦にもち込んだ。

和睦の締結後、徳川方は和睦の条件に反して内堀までも埋め立てたため、結果、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となり大阪冬の陣は徳川家の勝利に終わった。

★ 大阪夏の陣

大阪冬の陣からしばらくすると、豊臣氏は主戦派と穏健派で対立。主戦派は和議の条件であった総堀の埋め立てを不服とし、内堀を掘り返す行動をとった。そのため幕府は「豊臣氏が戦準備を進めている」と詰問、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。
さらに、徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、近畿方面に大軍を送り込んだ。そして、豊臣氏に要求が拒否されると、再度侵攻を開始した。

これに対して豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが、兵力で圧倒的に不利であり、。しかし、天王寺・岡山の戦いにおいて徳川軍は大軍ゆえの連携の悪さなどから、豊臣軍の真田幸村隊に本陣にまで突入され、毛利勝永隊4,000には、これに当たった6万もの幕府軍が、あっという間に敗退・四散した。
一時は本陣の馬印が倒れ、家康自身も自害を覚悟するほどの危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川軍により幸村は戦死、勝永は秀頼を守るために軍をまとめてなんとか大坂城に退却したが、攻め寄せる15万の幕府軍を支えきれず、秀頼と淀殿、その側近らは勝永の介錯により自害、勝永自身も自害し、ここに豊臣宗家は滅亡した。
その後、大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・放置されている。明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている。

★ 武田家滅亡

長篠の戦いでの大敗や北条氏との対立をも抱えることにもなった勝頼は人質にしていた信長の五男・勝長を返還するなど織田氏との関係改善を行った。しかし、信長はこれを黙殺した。
一方家康は1581年、総攻撃によって高天神城を奪取、さらに木曾義昌を調略させるとこれをきっかけに、1582年、織田軍が信濃方面、徳川軍が駿河方面から進軍するという形で織田・徳川家は武田領へ本格的に侵攻を開始した。
まず、家康は甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。
織田・徳川家の侵攻から1ヶ月、味方などの離反により追い詰められた勝頼一行は天目山で自害して武田氏は滅亡した。最後まで抵抗した武田方の蘆田信蕃(依田信蕃)が守る田中城は成瀬正一らの説得により大久保忠世に引き渡された。 (甲州征伐)。