相馬家14代当主であり身長180cmあったと言われる猛将

相馬顕胤そうまあきたね

小高城

居城 小高城跡

  ポイント

  • 身長180cmで鉄の扇を自由自在に操る猛将
  • 天文の乱では舅・稙宗の為に各地で奮戦する
  • 戦死者を弔う等、家臣領民思いの大名

誕生・死没

  • 誕生:1508年
  • 死没:1549年?
  • 享年:41歳

同年代の人物

名 前

  • 幼名:孫次郎

官職・役職

  • 讃岐守

親 族

  •  父 : 相馬盛胤
  •  母 : 盛胤の側室
  • 正室 : 伊達稙宗の長女
  • 兄弟 : 堀内近胤
  • 兄弟 : 黒木胤乗
  •  子 : 相馬盛胤
  •  子 : 於北(田村清顕の正室)

略 歴

1508年 1歳  相馬盛胤の嫡男として誕生
 
1521年 14歳  家督を継ぐ
 
1524年 17歳  岩城氏の富岡城・木戸城を攻略
 
1542年 35歳  天文の乱では稙宗に味方
 
1543年 36歳  宇多郡(現・相馬郡あたり)の実権を掌握
 
1545年 38歳  伊達稙宗が小高城に入城
 
1549年 52歳  死 没

概 要

 相馬家14代当主。相馬盛胤の嫡男。伊達稙宗の長女を娶り14歳という若さで家督を継ぐ。180cmと当時としては巨漢で勇猛な将であった。
 天文の大乱の際は舅・伊達稙宗を助けて各地で奮戦し、伊達晴宗に圧迫された稙宗を居城に匿うなど活躍した。

家督相続

 相馬氏13代当主・相馬盛胤の子として誕生。
 伊達稙宗の長女を娶り、1521年14歳という若さで家督を継いだ。
秋田ねは家督を継いですぐに岩城氏によって奪われていた楢葉郡の富岡城(富岡町)・木戸城(楢葉町)(父・盛胤が1492年に攻略するが岩城家に奪われていた)を1524年に奪還。弟・三郎胤乗(乗胤)を富岡城代に、標葉六騎七人衆の一氏・下浦泰清(常陸)を木戸城代とし固めた。

天文の乱

 伊達家の内紛「天文の乱」が勃発すると顕胤は、懸田俊宗・義宗父子と共に稙宗方の主要部隊として活躍した。
 顕胤は懸田義宗と共に、いったん西山城の稙宗を救出し懸田城(掛田城・伊達市霊山町掛田、茶臼山公園)に移したが、後に再び晴宗は稙宗を西山城に幽閉したので、顕胤は和解の交渉につとめたが晴宗は従わず、戦いを交えるにいたったという(奥相茶話記)。
1543年、顕胤は自ら指揮を取り晴宗を苦戦に追い込んだとされている。
また、信夫の大森城の戦い(福島市)では、晴宗方の戦死者100余名に対し、相馬方でも岡田胤通ら60余名の戦死者を出し、また平沢の合戦でも水谷式部(水谷胤重の父か)・青田能登初め30余名の戦死者を出している。
 1545年、伊達晴宗に圧迫された岳父・稙宗を伴って居城・小高城に引き取ったとされる。相馬関係の諸資料も稙宗の小高入城を伝えているのが多い。

宇多郡掌握

1543年頃、顕胤が天文の乱の鎮圧のため掛田出陣中に、黒木正房及び中村義房兄弟が陣中うぃ離反し謀反を起こし、北郷田中城を攻めようとした。
 顕胤はこれを討って出て宇多(うた・うだ)郡の実権を掌握。
 相馬中村城には草草野直清)を、黒木城代には青田信濃を置いた。
 こうして宇多、行方(なめかた)、標葉(しねは)の三郡に実権を及ぼし、戦国大名相馬氏の基礎を固めたのである。

稙宗入城

 伊達家の内紛「天文の乱」が勃発すると顕胤は、懸田俊宗・義宗父子と共に稙宗方の主要部隊として活躍した。
 顕胤は懸田義宗と共に、いったん西山城の稙宗を救出し懸田城(掛田城・伊達市霊山町掛田、茶臼山公園)に移したが、後に再び晴宗は稙宗を西山城に幽閉したので、顕胤は和解の交渉につとめたが晴宗は従わず、戦いを交えるにいたったという(奥相茶話記)。
1543年、顕胤は自ら指揮を取り晴宗を苦戦に追い込んだとされている。
また、信夫の大森城の戦い(福島市)では、晴宗方の戦死者100余名に対し、相馬方でも岡田胤通ら60余名の戦死者を出し、また平沢の合戦でも水谷式部(水谷胤重の父か)・青田能登初め30余名の戦死者を出している。
 1545年、伊達晴宗に圧迫された岳父・稙宗を伴って居城・小高城に引き取ったとされる。相馬関係の諸資料も稙宗の小高入城を伝えているのが多い。

人物

側室の子

 顕胤は実は正室の子ではない。父・盛胤と正室(蘆名盛舜の娘)との間に子供ができる前に、側室の長男として生まれた。
 その後、正室の子として「近胤」、「胤乗」が生まれるが、盛胤は顕胤を嫡男として第一に考え育てたという。このような場合家督争いなの 勃発する可能性もあるが、相馬家では家督争い等は起きず顕胤が14代当主として家督を継ぐ。

伊達七世弓を相馬に引くべからず

 南相馬市には稙宗が顕胤の忠義に関した逸話が残っている。
稙宗が、小高城から伊具郡丸森城に移る際に、途中千倉庄(南相馬市)石宮を通るとき、国境の石碑に「伊達七世弓を相馬に引くべからず」と墨書きしたという逸話が残っている。

180cmの巨漢

 身の丈6尺(180cm)余りありの長身であり、力は8人力で鉄軍扇を自由自在に操ったとされる。
 父・盛胤は体がそれ程強くなく、衰弱だったため、家中には「わしには決してにせず、先代・高胤に似せよ」と伝えていました。
この教育方針もあり、顕胤は8人力の屈強な体、また家臣領民想いの立派な武将に育ったとされる。さらに、13歳にしてすっでに政務に関わっていたとされる。