尾張斯波家14代当主
守護代・織田信友により暗殺される

斯波 義統しば よしむね

清洲城

斯波氏が居城していた清洲城

  ポイント

  • 尾張斯波氏14代当主
  • 守護代・織田信友の傀儡状態だった
  • 信友による「信長暗殺計画」を信長にバラす
  • 信友により暗殺される

誕生・死没

  • 誕生:1513年
  • 死没:1554年
  • 享年:41歳

名 前

  • 義元(初名)

所 属

官職・役職

  • 官位:正五位下、治部大輔、左兵衛佐
  • 幕府:尾張守護

親 族

  •  父 : 斯波義達
  •  母 : 家女房(多々良氏)
  • 正室 :石橋氏の娘
  • 兄弟 :斯波義景
  • 兄弟 :斯波統雅
  • 兄弟 :今川氏豊室
  •  子 : 斯波義銀
  •  子 : 毛利秀頼
  •  子 : 津川義冬
  •  子 : 願得寺顕悟室

略 歴

1513年…斯波義達の嫡男として誕生する
 
1515年…父・義達が今川軍に大敗は喫した事で家督を義統に譲る
 
1541年…朝倉にとられた越前国の奪還すらも企画する。
 
1544年…織田信秀の美濃攻めに協力するよう守護職を促す(信秀に対して篤い支援を行う)
 
1554年…信友が織田信長を謀殺する計画を企てたとき、信長にその計画を密告する
これに激怒した信友が守護低に攻め入り義統は弟の統雅ら一族30余名と共に自害する。享年42

家督相続

尾張守護・斯波義達の嫡男として誕生する。当時の斯波氏は駿河守護である今川氏親の攻勢を受けて、守護国のひとつであった遠江を奪われるなど劣勢に立たされていた。

このため父の義達は遠江奪還のため、盛んに遠江に出兵を繰り返していた。しかしこの出兵には斯波氏の重臣である織田氏が挙って反対しており、ついには尾張守護代の織田達定が反義達を掲げて挙兵し、守護対守護代の合戦に至るほどであった。結局この合戦では守護の義達が守護代の達定を討伐して守護代勢力を壊滅させると、なおも遠江出兵を続行させた。

しかし1515年、引馬城における今川勢との合戦では義達自身が捕虜になるほどの大敗を喫し、剃髪をさせられた上で尾張に送り返される屈辱を受けた。帰国後の義達は実質的な引退に追い込まれて失意の晩年を過ごすこととなり、これに代わってわずか3歳の義統が新たな尾張の国主となった。

織田一族による尾張戦国時代

まだ3歳の義統が家督を継ぐと、義達に討伐され弱体していた織田氏の勢力が回復していくことになり義統を傀儡として扱うようになる。
また、津島経済を掌握する織田氏分家の弾正忠家(信長の一族)の台頭があり。また上四郡を支配下に置く伊勢守家の織田信安も勢力を築いていた
尾張における正統性の象徴として信友に擁された形の義統であったが、1537年の寺領安堵状 を初見として、尾張守護としての活動が見られるようになるため、この頃までには名実ともに尾張守護となっていたと思われる。
織田信秀にたいして幾度も支援を行っており、特に信秀が西三河にまで勢力を広げ始めた1541年には、現実味は低かったと思われるものの、かつての斯波氏の分国であり、当時朝倉氏が君臨していた越前国の奪還すらも企画している。 この他にも1544年に信秀が美濃へ進攻する際には、尾張国中に信秀への協力を命じて、本来なら弾正忠家よりも格上にあたる伊勢守家や、同輩の因幡守家をも美濃進攻軍として動員させるなど、信秀に対して篤い支援を行った。

しかし大和守家の信友としては、義統が弾正忠家の信秀に接近することを快く思わず、義統としても自身を傀儡として扱う信友に不満を見せはじめたため、次第に両者の対立が深まっていった[10] 。また、信友が弾正忠家に対抗するために今川氏親の子である義元と連携に動いたことに反発したとする説もある。

織田信友による暗殺

織田信友による傀儡扱いに嫌気がさした義統は信友が織田信長を謀殺する計画を企てたとき、信長にその計画を密告して自身の助けを求めた。
しかしそれを知った信友は激怒し、義統の嫡男・斯波義銀が屈強な家臣を率いて川狩りに出かけた隙を突いて、守護邸に攻め入った。前述の通り、主だった守護家の家臣達は義銀とともに城を留守にしていた為、城内の守りは非常に手薄であったが、そのような中でも森政武・掃部助兄弟や丹羽祐稙、同朋衆の善阿弥などの守護方の奮戦もあり、大和守方に多数の損害を与えた。しかし衆寡敵せず守り手も次々と討たれていき、防ぎきれぬと悟った義統は城に火を懸けて、弟の統雅や従叔父の義虎(斯波義雄の子)ら一族30余名と共に自害した。享年42。