越前、尾張、遠江の守護を務めた
名家・斯波家の10代当主

斯波 義敏しば よしとし

斯波義敏像(霊泉寺蔵)

  ポイント

  • 斯波氏10代当主
  • 将軍・足利義政の逆鱗にふれ山口に逃亡する
  • 復帰した際に斯波義廉と対立する
  • 朝倉氏に越前を奪われる

誕生・死没

  • 誕生:1435年
  • 死没:1508年
  • 享年:74歳

名 前

  • 勘解由小路武衛
  • 源三位入道(通称)

所 属

官職・役職

  • 官位:従五位下、従四位下、左兵衛佐、左兵衛督、正四位下、従三位
  • 幕府:越前・尾張・遠江守護

親 族

  • 父(実父): 斯波持種
  • 父(養父): 斯波義健
  •    母  : 藤原氏の娘
  •  兄 弟 : 大野義孝
  •    子  : 斯波義寛
  •    子  : 斯波寛元
  •    子  : 斯波義雄

略 歴

1435年…斯波一門の大野持種の嫡男として誕生
 
1451年…元 服
 
1452年…斯波家当主・義健が死去したため義敏が武衛家の家督と越前・尾張・遠江守護を継承し、従五位下左兵衛佐に任官する
 
1457年…甲斐氏と戦って敗れる
 
1458年…甲斐氏と和解する
 
1459年…甲斐氏と再び戦が勃発
幕府より関東出兵の命がでるがこれに従わず、室町幕府より周防の大内教弘の元へ追放される
家督を嫡男・松王丸(義寛)が継ぐ
 
1461年…松王丸に替わって渋川義鏡の子である斯波義廉が武衛家を継承する。
将軍側近などに対し、復帰工作を行う
 
1465年…幕府より上洛の許しは出るが復職は許されなかった
 
1466年…幕府より尾張・遠江・越前3ヶ国の守護の復職を許されるが
武衛家の内訌と足利将軍家・管領畠山氏の後継者争いなどに絡んだ守護大名の派閥抗争が応仁の乱が始まる
 
1471年…越前国主の座を見返りに朝倉孝景が東軍へ寝返り、越前で実力支配を展開していった
 
1475年…朝倉孝景の総攻撃を受け、越前を朝倉家に奪われる
 
1485年…足利義政に従って出家、入道道海と号す
 
1508年…死 去

概 要

1435年斯波氏の一門大野持種の嫡男として誕生する。宗家(武衛家)の斯波義健の死後、義敏は一族から武衛家の家督と越前・尾張・遠江守護を継承し、従五位下左兵衛佐に任官した。
やがて重臣・甲斐常治と対立するようになり、一時、常治と和解したものの、将軍・足利義政の古河公方・足利成氏討伐の命令を好機に敦賀城や金ヶ崎城の甲斐常治を攻撃したが逆に敗れた
義政の怒りを買った義敏は、息子の松王丸(義寛)に家督を譲らされ、周防の大内教弘の元へ追放され、甲斐派が合戦に勝利した。
もっとも甲斐常治自身はその間京都で病床に臥せっていたのであり、勝利の直後に病死している。

1466年上洛の許しがおり、京都に上洛した義敏はすでに家督を継承していた義廉と対立。義政の重臣・伊勢貞親を通じて将軍に圧力をかけ再び越前・尾張・遠江守護を継承した。
しかし、義廉の家臣や義廉が助けを求めた山名氏の攻撃を受けわずか20日で解任され、義敏は越前に逃亡した。
その後応仁の乱が起こると義敏は東軍に属し、西軍の義廉が越前に派遣した朝倉孝景と戦ったが、後に朝倉孝景が越前国主の座を見返り東軍に寝返ると西軍勢力を駆逐した孝景が越前を統一し義敏は越前での実権を失い京都に引き返す事になる。