斯波氏12代当主で尾張・越前・遠江守護

斯波 義寛しば よしひろ

  ポイント

  • 斯波氏12代当主
  • 尾張・越前・遠江守護
  • 越前から尾張へ下向

誕生・死没

  • 誕生:1457年
  • 死没:1513年
  • 享年:57歳

名 前

  • 松王丸(幼名)
  • 義良(別名)
  • 武衛(通称)
  • 武衛屋形(通称)

所 属

官職・役職

  • 官位:従五位下治部大輔、従四位下左兵衛佐、左兵衛督、従三位
  • 幕府: 室町幕府副将軍、尾張・越前・遠江守護

親 族

略 歴

1457年 1歳  斯波義敏の嫡男として誕生
 
1459年 3歳  父・義敏が周防の大内教弘の許へ隠退したため、斯波氏(武衛家)家督と、越前・尾張・遠江3カ国の守護職を継ぐ
 
1466年 10歳  >父・義敏がれ武衛家当主として復権し、義寛も世嗣に復帰する
 
1467年 11歳  父とともに再び失脚し、尾張国に逃げる
 
1472年 16歳  元服する
 
1475年 19歳  遠江に下向して今川義忠と対峙する
越前国を朝倉家に侵略される
 
1479年 23歳  越前に向けて出兵し朝倉家と交戦する
 
1481年 25歳  越前国の復旧に失敗
 
1483年 27歳  越前から尾張国に下向し清洲城に入城する
 
1485年 29歳  将軍・義尚より諱を賜り、「義寛」と名乗る
父の跡を継いで武衛家当主となる
 
1487年 31歳  近江守護・六角高頼攻めを行う
 
1491年 35歳  再び六角攻めを行う
 
1494年 38歳  今川家が遠江に侵攻を開始
 
1495年 39歳  重臣の織田敏定が死没する
 
1510年 54歳  この頃に隠居し、家督を嫡男斯波寛元に譲る

概 要

尾張・越前・遠江守護。斯波氏(武衛家)12代当主だったが、父・斯波義敏が朝倉家に越前を追われたため、尾張に下向する。
その後は、越前国の復権や今川家と遠江を派遣をかけて争う。

誕生と出家

1457年に斯波義敏の嫡男として生まれる。
1459年に、父が越前・遠江守護代甲斐常治との対立で将軍・足利義政の怒りに触れると(長禄合戦)、越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を奪われ周防の大内教弘の許へ逃亡すると、甲斐氏らにより擁立され、僅か3歳の義寛が斯波氏(武衛家)家督と3ヶ国守護職を継ぐ。

1459年に父が越前・遠江守護代甲斐常治との対立によって将軍・義政から当主の座と、越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を奪われると義寛は甲斐氏に擁立されが斯波氏(武衛家)家督と3ヶ国守護職を継ぐ。

しかし、義寛の時代は長く続かず、1461年に義政から当主の座を廃されてしまと、出家し1463年に出家し「宗成」という法名を与えられた。
次の当主には遠縁にあたる渋川義鏡の子義廉が据えられた。

復権と尾張逃亡


1466年、父が義政から許しを得て武衛家当主として復権すると、義寛も復職し武衛家世継ぎに復帰した。

しかし、間もなく文正の政変が起こると、父と伊勢貞親・季瓊真蘂らと共に再び失脚し、家督は義廉に戻されてしまった。
1467年には京都にいた義寛は祖父・斯波持種及び叔父の竹王丸とともに義廉によって襲撃され、京都を脱出して尾張国に逃れた。

応仁の乱と元服

応仁の乱が勃発すると斯波氏は東軍に属した。
将軍義政の陣営である東軍に属したことによって1468年には早くも武衛家家督と3ヶ国守護職が義敏・松王丸父子へ再還付された(※西軍内では義廉が武衛家家督と3ヶ国守護職に留まる)。

1472年、には元服し、将軍・義政の偏諱を賜って「義良」と名乗り従五位下治部大輔に任じられる。

朝倉家との戦い

1475年、遠江の覇権をかけて駿河守護・今川義忠の軍勢と対陣すると。塩買坂で義忠を敗死させ遠江で今川氏に対し優位に立つ。

今度は、父・義敏がかつての重臣朝倉孝景が支配する越前へ侵攻するが敗北。

1479年、叔父の斯波義孝、甲斐敏光、二宮氏ら重臣を引き連れて京都から越前に向けて進発し、越前北部の坂井郡の細呂宜・長崎(坂井郡丸岡町)・金津で孝景と交戦した。
1480年にも朝倉方と交戦し、小競り合いを経て7月に斯波軍は攻勢に出て長崎城、金津城、兵庫城、新庄城などを落として本江、清水山にまで進出した。
この戦いは1481年まで続いたが9月15日の合戦で孝景の嫡男・氏景ら朝倉方に完敗し加賀に没落、越前復旧は失敗する。

今川家との戦い

1494年の頃になると駿河守護の今川氏親が斯波領の遠江に侵攻を開始する。義寛はこれに対処しようとするが、1495年に美濃で勃発した船田合戦の影響により出陣が出来ずにいた。

船田合戦が終わり、尾張国内の政情が安定化した1500年頃から義寛は戦略を変更。
前職の義材派から現職の義高派(実質的に政元派)に完全に切り替え、政元の厚い支持を獲得。信濃守護小笠原貞朝、関東管領上杉顕定にも協力を呼びかけ、今川氏親を東西から挟撃しようと目論む。その後何度か遠江に出兵した記録が残っている。

死 没

その後、義寛の名は史料上から見られなくなり、以後の動向の詳細は不明となる。
1511年に、嫡男・義達が尾張守護となっているため、少なくともそれまでには隠居したものと思われる。

1545年4月17日に義寛の三十三回忌法要が営まれているため、1513年4月17日に死去したと思われる。