里見家7代目。甥・梅王丸を追放し家督を相続する

里見 義頼さとみ よしより

里見義頼の墓(千葉県 光厳寺)

概 要

里見氏7代当主。義堯の次男。里見梅王丸(兄・義弘の子)に出家を強要し、家督を継ぐ。この一件に憤激し謀叛を起こした正木憲時を討ち、上総を平定した。

 ポイント

  • 里見家7代目当主
  • 兄・義弘の死後、甥の梅王丸を追放し家督を奪った
  • 反抗的な家臣である正木憲時を殺害して上総を平定




誕生・死没

  • 誕生:1543年
  • 死没:1587年
  • 享年:44歳
  • 墓所:南房総市富浦町の光厳院

名 前

  • 太郎(幼名)

官 位・役 職

  • 官位:左馬頭、安房守、刑部大輔

所 属

親 族

里見義堯
佐久間盛氏の娘
正室 鶴姫 (北条氏政)の娘
継室 菊姫 (北条氏康)の娘
側室 龍雲院 (正木時茂)の娘
兄弟
(義堯の子説)

義弘、堯元、堯次、義政、義頼


(義弘の子説)

義頼、梅王丸(義重)、正木義俊、薦野頼俊
義康正木時堯忠重、康俊、正木義断、 正木忠勝、奥平忠政室
  康俊 、正木義断 、正木忠勝、奥平忠政室
  奥平忠政の正室

略 歴


 
1543年 0歳  里見義堯(異説あり)の子として誕生
 
1577年 34歳  里見家と北条家が和睦
 
1578年 35歳  兄・義弘が死没
義弘の遺児・梅王丸と家督と領土をめぐって対立
 
1580年 37歳  梅王丸を追放し里見家の家督を奪う
 
1581年 38歳  家臣・正木憲時を殺害して、上総を支配する
 
1582年 39歳  武田家が滅亡
天正壬午の乱に北条家の援軍として参陣
 
1587年 44歳  死 没




出 生

☆ 義頼の出生には義堯の子、義弘の子の2説がある

通説では里見家5代当主・里見義堯の5男として生まれた後、嫡子に恵まれなかった長兄であり、里見家6代目当主・里見義弘の養子となったという。
しかし、近年の研究では義弘の庶長子とする異説も唱えられている。

家督略奪まで

★ 義弘に実子が誕生してしまったため、義頼との関係が悪化

嫡子に恵まれなかった義弘の養子となった義頼だが、1570年に義弘のもとに実子・梅王丸(義重)が誕生してしまう。義弘は自身の死後は安房国を義頼に与え、上総国を嫡男・梅王丸に与えることを約束してしまう。
しかし、この分割相続の決定に義頼は不満を持ち、義弘と義頼の仲は次第に険悪になっていってしまった。

☆ 北条家と里見家の和睦が成立し北条家の娘を正室に娶る

1577年、義弘が相模国の後北条氏と和睦した(房相一和)ことにより、義頼は北条氏政の娘・鶴姫を正室に迎えた。しかし、2年後に鶴姫が急死すると改めて氏政の妹・菊姫を継室に迎えた。





☆ 義弘の死後、その遺児・梅王丸を追放し里見家の家督を奪取する

1578年、義弘が久留里城で死去すると里見家の家督は義弘の遺児である梅王丸が継いだ。これに納得いかない義頼は義弘の葬儀に参加せず、里見家内では不穏な空気が漂っていた。
その後、義頼はと家督と領土をめぐって梅王丸対立、義頼は北条氏政の支援を受けて、1580年に上総国を制圧し、梅王丸を出家させ、里見氏の領国全てを継承した。
また、1581年には義頼の家督相続に反発した里見家の忠臣であった正木憲時を殺害して、上総を制圧、自身の体制を固めた。

天正壬午の乱

★ 織田家により武田家が滅亡すると徳川・北条・織田で武田家の争奪戦が勃発。里見家も北条家側として援軍を送る

1582年、織田信長によって武田氏滅亡すると、旧武田領の争奪戦である「天正壬午の乱」が勃発、里見氏は同盟者である北条氏からの依頼を受け、北条氏側として援軍を派遣している。この里見軍は遠く甲斐国まで進軍し、徳川家康の軍を相手にした黒駒合戦と言われる甲斐国争奪戦に参加している。

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晩 年

☆ 北条家との争いが再発、義頼は豊臣秀吉と結んでこれを回避する

義頼の正室が死ぬと北条氏政との争いが再燃し、義頼はこれを撃退する一方で、豊臣秀吉らと手を結んで連携をとるなど、卓越した外交手腕を見せている。

しかし、その後、1587年、安房岡本城で病死。