佐野家15代当主。北条家側につき
何度も上杉軍の侵攻を撃退した

佐野 昌綱さ の まさつな

佐野昌綱 肖像画

  ポイント

  • 佐野家15代当主
  • 上杉から北条へ寝返る
  • 何度も上杉軍を撃退する
  • 巧みな戦術で勢力を保持した

誕生・死没

  • 誕生:1529年
  • 死没:1574年
  • 享年:46歳

名 前

  • 小太郎(幼名)

所 属

官職・役職

  • 官位:不 明

親 族

  •    父  : 佐野秦綱
  •    兄  : 佐野豊綱
  •    弟  : 佐野房綱(天徳寺宝衍)

略 歴

1529年…佐野秦綱の次男として誕生する
 
1559年…豊綱が死去し家督を継ぐ
 
1560年…北条軍が3万の兵で押し寄せるが上杉軍の援軍もあってこれを撃退する
 
1561年…上杉軍による小田原城攻撃が失敗に終わる。その後上杉を裏切り北条側につく。
その後1570年の間に上杉から10回程度攻められる
 
1574年…死 去

概 要

佐野家15代当主。唐沢山城主。豊綱の嫡男。古河公方・足利家に従って河越合戦に参陣するが敗北。以後は北条家に従い、上杉謙信の攻撃をたびたび受けた。

上杉家と北条家

昌綱は始め足利晴氏に仕えていたが、古河公方の力が衰退し後北条氏の勢力が拡大すると、北条氏康と結んだ。ところが、越後国の上杉謙信が後北条氏討伐のための関東への侵攻するやこれに呼応し小田原城攻囲に参加した。これに対し1560年に北条氏政が居城の唐沢山城へ3万余の大軍で攻撃すると昌綱は徹底抗戦し、その後上杉謙信の援軍が間に合い撃退に成功している。
しかし、1561年謙信が信濃の川中島で、甲斐の武田信玄と死闘を繰り広げている最中に再び北条軍が唐沢山城を攻撃すると、孤立した昌綱は氏康に降伏し、再び北条(足利義氏)陣営へ寝返った。

上杉軍からの攻撃

上杉から北条に寝返った佐野氏であったが、永禄年間から元亀年間まで上杉謙信から10度攻められたという記録が残っている。しかし、昌綱の優れた戦の才能と、後に関東一の山城といわれる堅城・唐沢山城で防戦し、ほとんど撃退している(唐沢山城の戦い)。 時には謙信に降伏したが、戦後の情勢によってやむを得ずに和睦して明け渡したり、使者などを遣わして改めて降伏しただけであり、謙信の帰国後に即座に離反するなどして命脈を続かせた。
謙信にとって唐沢山城(佐野)は関東における勢力圏の東端であり、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線でもあったため、関東に進出する上で確実に確保すべき拠点とみなされて特に重要視されたとみられている。

最 後

天正2年4月8日(1574年4月28日)に死去した昌綱、本光寺にある墓には、上杉謙信の一周忌の日である天正7年3月13日が、佐野昌綱の墓に刻まれている。これは好敵手であった謙信よりも長く生きたという意地を示すために遺言で刻ませたという伝承もあるようである。

人 物

「幼年の頃より材智人に越え、勇力絶倫なり。成長の後、軍略に秀で、殊に鎗術に妙を得、仁恵ありて民をあわれみ、近隣の諸将と和し、管領家(上杉謙信)を尊び、無二の志をあらはされけり」と記述がある(『佐野記』)

佐野氏の歴代当主としては唯一肖像画が作成されており、狩野松栄筆、策彦周良賛により天正7年(1579年)に描かれた佐野昌綱像が栃木県佐野市の大庵寺に所蔵されている。

参考資料(引用元)