桜井松平家5代目。家康の高天神城の戦いなどで活躍した

松平 家次まつだいら いえつぐ

桜井山菩提寺にある松平忠吉の墓(左から1番目)

概 要

桜井松平家当主・松平家次の次男。兄・忠正が早死にしたため家督を継ぐ。家康の高天神城の戦に参陣し軍功を挙げ尾張国品野で2000石を与えられた。

 ポイント

  • 松平家次の次男。桜井松平家5代目
  • 高天神城の戦いで活躍し尾張国品野で2000石を領した
  • 24歳の若さで死亡




誕生・死没

  • 誕生:1559年
  • 死没:1582年
  • 享年:24歳

名 前

  • 監物(通称)

所 属

親 族

松平家次
兄弟 忠正忠吉 、忠広
   菅沼定盈の正室、竹田定加(医師)の正室
信吉忠頼

略 歴


 
1559年 0歳  松平家次の次男として誕生
 
1577年 17歳  兄・忠正が死去し桜井松平家の家督を継ぐ
 
1581年 23歳  高天神城攻めに参陣し戦功をあげ尾張国品野で2000石の地を与えられる
 
1582年 24歳  死 去




桜井松平家

☆ 松平信定が松平親房に婿養子となり桜井松平家となる

松平長親の次男(三男とも)松平信定を祖とした松平家の庶流。
信定は、松平宗家の座を狙い、宗家の7代目であった甥・松平清康や広忠と争った。
桜井松平家3代目当主・松平家次(忠吉の父)は今川義元の死後、今川氏からの独立を志す松平元康(後の徳川家康)が三河一向一揆と対立すると、吉良氏など松平宗家に敵対する勢力と結んで、宗家転覆を企てたが、一揆は鎮圧され、宗家転覆は失敗に終わり以後、宗家に従属した。 江戸時代以降は武蔵松山藩・遠江浜松藩に封じられるが、短命の当主が多く、一時改易されたが、後に上総佐貫藩主家として復活した。
以後、駿河田中藩・遠江掛川藩・信濃飯山藩・遠江掛川藩(再封)を経て摂津尼崎藩にて明治維新を迎えた。
明治維新後、明治政府の命令により桜井氏(さくらいし)と改めて、後に子爵となった。

誕生と家督相続

☆ 誕 生

1559年、桜井松平家3代目当主・松平家次の次男として誕生した。
1563年、父・家次は死去した。そのため家督は兄・忠正が継いだ。

☆ 家督相続

1577年、当主であった兄・忠正が死去した。忠正の嫡子・家広(亀千代)はまだ生まれたばかりであったため、忠吉は兄の正室であった多劫姫(徳川家康の異父妹)を妻に迎えて家督を継いだ。

高天神城の戦い

☆ 高天神城の攻略戦で戦功をあげ加増される

1581年の高天神城攻めに従い、諏訪原に出城を築いて守るなどの軍功を挙げた。
忠吉は高天神城攻めでの功績にを受け、桜井と東条の間で紛争となっていた400石の地が加増された。のちに改めて尾張国品野で2000石の地を与えられたという。

死 去

☆ 24歳の若さで死去、家督は甥の家広が継ぐ

1582年6月24日、24歳の若さで死去した。家督は甥の家広(兄・忠正の嫡男)が継いだが、家広は依然幼少であるために、忠吉の弟の忠広が後見となり、同年の甲斐攻め(天正壬午の乱)にも忠広が従っている。