伊達氏の一門で、留守氏18代当主

留守 政景るす まさかげ

留守政景

留守政景 肖像画

  ポイント

  • 伊達晴宗の三男
  • 留守家に養子にはいる
  • 関が原合戦では伊達家の総大将を務める

誕生・死没

  • 誕生:1549年
  • 死没:1607年
  • 享年:59歳

同年代の人物

墓所

  • 岩手県一関市の機織山
  • 岩手県奥州市水沢の大安寺

名 前

  • 伊達政景(改名後)
  • 六郎(通称)
  • 雪斎(号)

所 属

官職・役職

  • 官位: 従五位下上野介

親 族

  •  父 : 伊達晴宗(実父)
  •  父 : 留守顕宗(養父)
  •  母 : 久保姫(岩城重隆の娘)
  • 正室 : 義姫最上義守の娘)
  • 兄弟 : 伊達輝宗
  • 兄弟 : 岩城親隆
  • 兄弟 : 阿南姫(二階堂盛義の正室)
  • 兄弟 : 鏡清院(伊達実元の正室)
  • 兄弟 : 小梁川盛宗の室
  • 兄弟 : 宝寿院
  • 兄弟 : 国分盛重
  • 兄弟 : 杉目直宗
  •  子 : 小次郎
  •  子 : 千子姫
  •  子 : 秀雄
  •  子 : 彦姫

略 歴

1549年 1歳  伊達晴宗の三男として誕生
 
1592年 44歳  文禄の役で朝鮮へ出兵する
伊達家の一門へ復帰する
 
1600年 52歳  関が原の合戦で伊達軍総大将を務め上杉軍と交戦する
 
1604年 56歳  一関2万石を与えられる
 
1607年 59歳  死 没

概 要

留守家18代当主。伊達晴宗の三男。父・伊達晴宗の政略により、留守顕宗の娘を娶り家督を継ぐ。兄・輝宗や甥・政宗に従い、相馬家や最上家などと戦った。のちに伊達姓に復し、関が原の戦いでは伊達軍の総大将を務める。

誕生と留守家相続

1549年、伊達晴宗の三男として誕生。
1567年、父・晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、奥州の名族・留守氏を継ぐことになる。この養子により晴宗と対立していた留守家を乗っ取る事に成功し、留守顕宗の実子は神楯城主・高城周防守の養子として送り出さた。

伊達家への貢献

 留守家を継いだ政景は、村岡氏や余目氏の反抗を鎮圧すると共に、兄・輝宗や甥・政宗を補佐し、各地を転戦し実家の伊達氏の勢力拡大に貢献した。

また、岳父・黒川晴氏が伊達家を裏切った際にはその許しを政宗から得ている。

 しかし、小田原征伐に参陣しなかったため一度所領を没収されている。

関が原合戦

1600年の関ヶ原の戦いでは、政宗の命により伊達軍総大将として、上杉景勝の攻撃を受けていた最上義光の援護に向かい、小白川に着陣し、撤退する上杉軍を率いた直江兼続と交戦。
 伊達政宗の書状によると伊達勢で80~100の首級を取り、一門でもある大條実頼が負傷するほどの激戦であったという。

伊達氏離れ

晴氏は智勇兼備の将として名高く、伊達氏の傘下にあって活躍したが、伊達政宗が家督を継ぐと、政宗は父・輝宗の外交方針と逆の外交を行い、上杉景勝と結んだために最上義光と対立を深めた。黒川氏は最上氏の分家にあたため、伊達家との関係が微妙な関係になった。

関が原合戦後

関が原合戦後には「伊達」姓への復帰が認められ(養子に出された者が実家に復姓することは名誉な事であった)1604年に一関2万石を与えられた。
さらに甥の伊達成実が出奔した際には伊達家に戻したりしている。

 1607年に死去。享年59であった。
菩提寺は岩手県奥州市水沢の大安寺。同寺には4人の殉死者と共に描かれた、極めて珍しい肖像画が残る。