政宗から絶大な信頼を得て、秀吉もその才能に惚れた

鬼庭 綱元おににわ つなもと

鬼庭綱元

鬼庭綱元 木造 石雲寺(宮城県大崎市)

  ポイント

  • 政宗から絶大な信頼を得て、奉行職に任命される
  • 秀吉の愛妾を妻に賜り、政宗の怒りを買って出奔
  • のちに帰参し、国老として国政に携わる

誕生・死没

  • 誕生:1549年
  • 死没:1640年?
  • 享年:92歳

同年代の人物

名 前

  • 茂庭綱元(改名)
  • 石見守(通称)
  • 了庵(通称)
  • 茂庭延元(改名後)

所 属

官職・役職

  • 不 明

親 族

  •  父 : 鬼庭良直
  •  母 :牧野刑部の娘
  • 側室 : 香の前
  •  子 :鬼庭安元
  •  子 : 南(守屋貞成室)
  •  子 : 鬼庭良元
  •  子 : 鬼庭実元
  •  子 : 猪苗代盛元
  •  子 : 軽部常元
  •  子 : 津多(原田宗資室)(養子)
  •  子 : 亘理宗根

略 歴

1549年 1歳  鬼庭良直の子として生まれる
 
1575年 27歳  家督を継ぎ長井郡川井城主となる
 
1586年 38歳  人取橋の戦いに参陣
奉行職に任命される
 
1588年 40歳  安達郡百目木城主となり所領を5,000石に加増された
 
1590年 42歳  葛西大崎一揆の黒幕と疑われたため秀吉との折衝役を務める
 
1591年 43歳  磐井郡赤荻城主となった
 
1592年 44歳  肥前国名護屋に在って留守居役を務める。
名前を「茂庭延元」に改名する
 
1595年 47歳  伊達家から出奔する
 
1597年 49歳  伊達家に復帰する
 
1600年 52歳  留守政景の指揮下に入り上杉家と戦う
 
1601年 53歳  評定役に任命
 
1615年 67歳  大阪夏の陣に出陣
 
1640年 92歳  死 没

概 要

鬼庭良直の嫡男。父同様・行政手腕に優れており、政宗から奉行職や百木目に任命されている。伊達家が葛西大崎一揆の黒幕と疑われ窮地に立たされると。伊達政宗は一揆の鎮圧に専念し綱元が上洛し秀吉に弁明している。
上洛した綱元に謁見した秀吉は、その人柄と才能を愛し、自身の愛妾を妻として与えるほどであり、また「鬼が庭にいるのは縁起が悪い」という理由で、姓を茂庭に改めさせたという。この急激な接近が政宗の疑念を呼び、ほどなく伊達家を出奔するが後に帰参している。

出 生

1549年、伊達郡小屋館(赤館)城主・鬼庭良直(左月斎)の嫡男として生まれる。
1575年、父の隠居にともない家督を相続し、長井郡川井城主となる。
1586年には奉行職に任ぜられ、1588年には安達郡百目木城主となり所領を5,000石に加増された。

秀吉との出会い

1590年、奥州仕置にともなう知行再編により柴田郡沼辺城主となる。同年に発生した葛西大崎一揆を政宗が煽動していたこと疑いをかけられると、綱元は豊臣秀吉への弁明のために京に派遣され、以後秀吉との交渉役を務めることになる。これが秀吉との出会いである。
1591年に政宗が岩出山に減転封されると、磐井郡赤荻城主となった。翌年、文禄の役の際には肥前国名護屋に在って留守居役を務める。同年、長男・安元が病死したため、八幡氏に養子に出していた二男・良綱(良元)を呼び戻して跡取りとした。

伊達家出奔

綱元の人柄と才能を愛した秀吉は自分の愛妾の「香の方」を綱元の側室として与え、また「鬼が庭にいるのは縁起が悪い」という理由で、姓を茂庭に改めさせたという。
秀吉が綱元を気に入り直臣として召し出そうとしているとの噂を耳にした政宗は、次第に綱元を疑うようになり、ついに1595年、綱元は政宗の命により良綱に家督を譲ることを迫られ隠居に追い込まれた。
この時、綱元に与えられた隠居料はわずか100石に過ぎず、加えて隠居料以外の収入を得た場合には良綱が相続した茂庭氏の本領5,000石をも没収するという条件が付けられたため、憤激した綱元は伊達家から出奔した。

この時、本多正信を介して徳川家康から誘いを受けたものの、政宗の奉公構(刑罰の一つ)により破談となる。
綱元の境遇にいたく同情した家康は、中白鳥毛槍・虎皮の鞍覆・紫縮緬の手綱を贈り、また当座の資金として関八州の伝馬10疋の朱印状及び永楽銭200貫文を与えた。

その後1597年、政宗から許されて伊達家に復帰している。

関が原の戦い

1600年の関ヶ原の戦いでは、山形城主・最上義光への援軍第一陣として留守政景の指揮下に入る。
綱元は政景の命により別働隊を率いて長井方面へと進攻し、9月25日に刈田郡湯原城を攻略すると、さらに二井宿峠を越え高畠城へと向けて兵を進めていたが、政宗の命令により、突如として屋代景頼らと共に福島表の兵力不足を補うために呼び戻され、10月6日の福島城攻めに参加した。

その後、関が原の戦いで活躍すると、隠居料として改めて栗原郡文字に1,100石を与えられた。

その後

父・左月斎が伊達輝宗の代に務めていた評定役に就任し、六人制の奉行職(古田重直・鈴木元信・山岡重長・津田景康・奥山兼清・大條実頼)の上に立ってこれを指導・監督した。
1604年、政宗の五男・宗綱(卯松丸)が栗原郡岩ヶ崎城主になると、評定役の職に留まったままその後見役を命じられた。宗綱は仙台城下の綱元の屋敷で養育され、岩ヶ崎城下には城の管理にあたっていた綱元の家来達が住む町場(茂庭町)が置かれた。
1614年の大坂冬の陣では政宗の長男・秀宗の陣に属し、1615年、秀宗に伊予国宇和島10万石が与えられると、綱元は良綱と共に宇和島に赴いて宇和島藩の統治機構の立ち上げにたずさわり、同年4月の大坂夏の陣には宇和島城から出陣した。

1618年に嫡男・宗綱が早世すると、高野山成就院に赴き三年間にわたって供養を行った。帰国後、政宗より宮城郡下愛子の栗生に館を拝領すると、以後はここに居住した。
1636年に政宗が死去すると政務を離れ、栗生の館を五郎八姫に譲って隠居領の文字に隠棲する。翌年には同地に洞泉院を創建し、その境内に政宗のために阿弥陀堂を、宗綱のために妙覚堂を、それぞれ建立した。

政宗の四回忌にあたる1640年5月24日死去。享年92。洞泉院の石仏を以て墓石とした。