蘆名家当主として南奥州の勢力と共に佐竹氏に対抗した

二階堂(蘆名) 盛隆にかいどう(あしな) もりたか

  ポイント

  • 二階堂盛義の長男として誕生
  • 盛氏の養子となり蘆名家18代当主となる
  • 蘆名家当主として南奥州の勢力と共に佐竹氏に対抗する
  • 男色関係のもつれから寵臣に刺され死亡する
  • 盛隆の死後、蘆名家は衰退する

誕生・死没

  • 誕生:1561年
  • 死没:1584年
  • 享年:24歳
  • 墓:福島県会津若松市門田町の竹巌廟

名 前

  • 平四郎(通称)

所 属

官職・役職

  • 官位:左京亮(受領名)

親 族

略 歴

1561年 0歳  二階堂盛義の長男として誕生
 
1565年 4歳  人質として蘆名家に送られる
 
1575年 14歳  蘆名盛興が死没し、盛興の未亡人の彦姫(伊達輝宗の養女・伊達晴宗娘)と結婚し蘆名家の当主となる
 
1580年 19歳  蘆名盛氏が死没
蘆名家の実権を掌握
 
1581年 20歳  上杉家の家督争いに対して工作を始める
信長と交流を開氏する
 
1584年 24歳  死 没

概 要

蘆名家18代当主。二階堂盛義の子。蘆名盛興の未亡人を娶った。南奥州の勢力と結んで佐竹家と争い又、上杉家への工作活動なども重なった。最後は寵の衰えを逆恨みした側近に黒川城内で殺された。

誕生と家督相続

1561年、須賀川二階堂氏7代当主・二階堂盛義の長男として誕生した。
生母は伊達晴宗の娘である阿南姫。(当時は伊達輝宗の養女となっていた)伊達晴宗は蘆名盛高の外孫であるため、盛隆は蘆名盛高の玄孫に当たる。

1565年に二階堂家が蘆名盛氏に敗れて降伏したため、盛隆は4歳の時に人質として会津の蘆名家に送られた。

その後、1575年に蘆名氏17代当主・蘆名盛興が跡継ぎを残さずに死没すると、盛興未亡人の彦姫と結婚し、蘆名盛氏(この時はまだ生存していた)の養子となって18代当主となった。しかし、実権は盛氏が握っていた。
1580年、盛氏の死去により実権を掌握した。

越後工作

1581年、「御館の乱」で家督を相続した上杉景勝に不満を抱いている新発田重家に対して反乱を起こさせるべく様々な工作を行っている。
その結果、重家は一門衆のほか、同族加地秀綱ら加地衆や、御家騒動の際に景勝の対立勢力だった(上杉景虎方)豪族らを味方に引き入れ新潟津を奪取し支配した。(7年間続いたという)

信長との交流

この頃、北陸地方で上杉氏と争っていた織田信長はこれを挟撃するべく、上杉氏を離反した新発田重家及び東北の諸大名の懐柔のため外交を始めていた。
盛隆も1581年に家臣の荒井万五郎を上洛させ信長と交渉を行ったとされている。※これは、盛隆から接近したとも、信長が景勝を挟撃するために盛隆を誘ったともいわれる。
盛隆は信長に名馬3頭・蝋燭1000挺を献上すると、信長はこれに応えて、盛隆が三浦介に補任されるよう朝廷へ斡旋した。蘆名氏は三浦義明の末裔であり、盛隆にとって三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは名誉であり、信長もこのことで盛隆の心を掌握しようとしたと考えられる。

信長との関係が深まったことで、盛隆は上杉景勝との関係が疎遠になった。
1581年には家臣の金上盛備に新発田重家を援護させ、赤谷城(蘆名家臣・小田切盛昭が新発田氏を支えるために築いた城)を築城するなど、重家を援護する介入を行った。

自国での活動

蘆名氏当主となった盛隆は、父・二階堂盛義と共に蘆名氏の力を用いて衰退していた実家の二階堂氏の勢力回復に務めた。
そのため、蘆名家中では二階堂氏からの人質であった盛隆に反感を抱く家臣による反乱がたびたび起こった。
さらに、新発田氏支援に対抗するため、直江兼続(上杉家臣)により富田氏実や新国貞通などの盛隆に反抗的な重臣達を調略し反抗させることで、蘆名氏に揺さぶりをかけた。

男色のもつれで謀反

1584年6月のこと。名四天王の松本氏輔の子である松本行輔は盛隆のお気に入りだった。そのため盛隆は行輔を討ち死にさせては惜しいと行輔に対して戦にでる事を禁じた。行輔はこれに不満を持ち、やがて、栗村盛胤と関係を持ってしまいます。
これに激怒した盛隆は行輔に対して所領の取り上げと家督相続の中止を行った。納得のいかない行輔は栗村盛胤と協力し盛隆が留守中に謀反を起こし、盛胤と蘆名氏の居城である黒川城を占拠してしまいました。
盛隆はこれを素早く鎮圧し二人を処刑した。1584年7月には長沼城主の新国貞通(栗村の実父)を攻めて降伏させた。

最 後

1584年、寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した。享年24歳であった。
この殺害にも理由があり、大庭三左衛門は元々、盛隆に可愛がられた家臣であったが、時が経つにつれ疎まれ、次第に盛隆は三左衛門のことを「冷めて(醒めて)は食えぬ」の意味を込めて「鴨汁」と裏で呼ぶようになった。
このことを知った大庭三左衛門は深く落ち込み、盛隆を恨むようになります。
さらに、盛隆のいじめはエスカレートし我慢の限界を迎えた大庭三左衛門は盛隆に切りかかったとされているます。

その後の蘆名家

盛隆の死後、家督は生後1ヶ月の息子・亀王丸が継ぎ、亀王丸の母である彦姫が隠居した兄・伊達輝宗の後見を受けて蘆名氏をまとめることになった。
しかし、蘆名家中では、佐竹氏の影響力の拡大と伊達氏の影響力の弱体化を招いた。また、盛隆の死去が伊達輝宗と佐竹義重も自身の隠居を早めることになり。そうした中で輝宗の跡を継いだ政宗は同盟関係を破棄して蘆名氏を攻め(関柴合戦)、亀王丸も1586年早死にし、蘆名家中は混迷した。この盛隆の早すぎる死が、蘆名氏滅亡を早めた原因とされている。