輝宗を拉致逃亡し自ら死を招いた

二本松 義継にほんまつ よしつぐ

二本松義継

畠山(二本松)義継主従陣没碑

  ポイント

  • 二本松家9代当主
  • 伊達政宗に敗れ降伏
  • 輝宗を拉致逃亡したが伊達軍に追いつかれ射殺される

誕生・死没

  • 誕生:1552年
  • 死没:1585年
  • 享年:34歳

同年代の人物

名 前

  • 七郎(通称)

所 属

官職・役職

  • 官位:左京亮、右京大夫

親 族

略 歴

1552年 1歳  二本松義国の長男として誕生
 
1580年 29歳  父・義国が死没(家督はこれ以前に継承)
 
1585年 34歳  伊達政宗から攻撃を受けて降伏
伊逹輝宗を拉致したが後に伊達軍により射殺される

概 要

二本松家9代当主で陸奥二本松城主。1585年、伊達政宗に敗れ和睦交渉を行うが、不利な条件に不満を覚え会見の席上から政宗の父・輝宗を拉致して逃亡。阿武隈河畔の高田で伊逹の家臣・留守政景、伊逹成実に追いつかれ 輝宗もろとも殺害される。

誕生と家督相続

1552年、二本松氏代8代当主・二本松義国の嫡男として生まれる。1580年に父・義国が死去するがこれ以前に義継が家督を継いでいたと思われる。

伊達政宗からの攻撃

1585年、大内定綱が伊逹氏を裏切り蘆名家に寝返ったため、政宗を大内定綱の攻撃を決意した。
二本松義綱は大内家と縁戚関係であったため、政宗の標的は二本松家にも及んだ。
義継は政宗に降伏を申し入れたが、政宗はこれを許さず二本松家の 領地を次々に攻略し、二本松家は大名として地位が維持できないほど追い込まれた。
打つ手がない義継は政宗の父・輝宗に悲願しようやく和睦交渉が認められたが、義綱は政宗を深く恨んだ。

輝宗拉致と最後

事件が起きたのは10月8日宮森城で行われた伊達家と二本松家の和睦交渉の会見のとき、和睦交渉の不利な条件に不満を抱き政宗に対して恨みを持っていた義継が輝宗の許へ参上した際に、輝宗を拉致し二本松城へ連れ去ろうとした。
しかし、途中の阿武隈河畔の高田で伊逹家臣留守政景、伊逹成実に追いつかれ輝宗もろとも射殺された。(栗之巣の変事)
※輝宗と刺し違えたとの説もあり

義継の遺体

義継の遺体は政宗により切り刻まれた上に藤藁で繋ぎ合わせて無残に吊るされたという。