天文の乱では伊達稙宗の支援を行った

二本松 家泰にほんまつ いえやす

  ポイント

  • 5代当主・二本松村国の嫡男で二本松家6代当主
  • 天文の乱では稙宗側につく
  • 嫡子がいないまま死没したため家督は弟・義氏が継いだ

誕生・死没

  • 誕生:1512年
  • 死没:1546年

名 前

  • 七朗(幼名)
  • 晴国(足利義晴の偏諱をうけたか?)

所 属

官職・役職

  • 官位:修理大夫、右馬頭

親 族

二本松村国
兄弟二本松義氏(弟)

略 歴


1512年 0歳  二本松村国の嫡男として誕生
 
1542年 30歳  村国の死没に伴い家督を相続
天文の乱では伊達稙宗の味方につく
 
1543年 31歳  伊達稙宗を八丁目城にむかえる
 
1546年 35歳  死 没

概 要

二本松氏6代当主。5代当主・二本松村国の嫡男として誕生する。

天文の乱では稙宗側について活躍。嫡子がいないまま死没したため家督は弟の義氏が継いだ。

天文の乱

1542年、家泰が家督を継いでまもないころ、伊達家のお家騒動「天文の乱」が勃発する。
この乱の影響で、二本松家家中でも稙宗派・晴宗派に分かれて抗争が発生した。

家泰は稙宗方に味方し、田村隆顕・石橋尚義らの援助を得て、家中の晴宗派の家臣を二本松城から追放し、八丁目城主・堀越興行が晴宗方の遊佐美作守の城を攻略した。
また晴宗方に与した庶流の本宮宗頼を攻め、本宮城を攻め落とした。

翌1543年には堀越興行と共に稙宗を信夫郡八丁目城に迎えた。稙宗は1546年、大森城に移るまでここを居城としたとされる。

ちなみに家泰は1546年、35歳の若さで死没し、家督は弟の義氏が家督を継ぐことになるが、この天文の乱に関する史料上の記事では、二本松氏の活動は義氏の名で記載されており、これは両者が混同されたか、あるいは既に義氏が政務を執っていたことによるのかは不明である。

名前について

家泰には「晴国」という別名がある。
これは足利将軍・義晴の偏諱を受けて改名したものと考えられているが、紫桃正隆作の『戦国大名系譜人名事典 東国編』において、家泰と晴国とは別人であり、晴国は家泰の父で先代の当主であるとしている。