出羽北部を統一し南部家の最盛期を築いた

南部晴政なんぶはるまさ

南部晴政

南部晴政 肖像画

  ポイント

  • 南部家最大の版図を築いた大名
  • 農民の娘を側室に迎えた
  • 武勇に優れた武将

誕生・死没

  • 誕生:1517年
  • 死没:1582年
  • 享年:66歳

同年代の人物

名 前

  • 南部彦三郎(幼名)
  • 南部安政(青年期)
  • 南部晴政

官職・役職

  • 右馬助
  • 大膳亮
  • 大膳大夫

親 族

略 歴

1517年…南部安信の嫡男として生まれる。
 
1537年…斬波氏との軍勢と戦う
 
1539年…家臣の謀反にあい南部氏の居館・聖寿寺館しょうじゅうじたて(元三戸城)を焼かれ、多くの書物を失った。同年室町幕府12第将軍足利義晴より「晴」の字を拝領され、南部晴政と名乗る。
 
1540年…戸沢・斬波家連合群の岩手県侵攻に対して石川高信(叔父)を向かわさせ、これを撃退、戸沢家を秋田に追放し、斬波家の岩手郡を支配する。
 
1541年…南部氏の家督を継いで24代当主となる。(南部氏の統一)
謀反を起こした工藤氏を討ち、焼かれた三戸城を再建する。
 
1565年…石川高信の子、田子信直(後の南部信直)を長女の婿として養子として迎え入れる。
 
1566年…安東愛希に長牛城(山形県鹿角市)を攻められるが、これを撃退する。
 
1567年…2度に渡り安東家に長牛城攻められ、2度目の戦いの際に長牛城を落城させられる
 
1568年…信直と共に安東氏の長牛城を奪還する。
 
1570年…実子「晴継」が生まれる。この頃から信直との確執が生まれる
 
1571年…家臣の大浦為信の謀反にあい、家臣の石川高信が討たれる。
 
1572年…晴政自ら兵を率いて信直を襲撃しに出陣するが、流れ弾が晴政の馬に当たり、晴政は落馬する。両者一触即発の事態に陥る
 
1576年…信直の正室(晴政の長女)が亡くなり、身の危険を感じた信直は養子を辞退し、身を隠す。次第に南部家内は晴政派と信直派で対立していく。
 
1582年…晴政が死去。家督を実子晴継が継ぐ。

概 要

南部家24代当主。安信の子。将軍・足利義晴の偏諱を賜り、晴政と名乗る。三戸城を本拠に隣国の戸沢氏を追放し津軽地方の安東家を駆逐さらに鹿角郡に進出し「三日月の丸くなるまで南部領」といわれる広大な版図を築いた。

誕生と家督相続

1517年、南部氏第23代当主・南部安信の嫡男として生まれた。

1539年に上洛して、室町幕府12代将軍・足利義晴より「晴」の一字を拝領され「南部晴政」と名乗った。

1540年には、戸沢政安を秋田に追放し、斯波経詮を撃退して、岩手郡を手中に収めた。翌年1541年、南部氏の家督を継いで第24代当主となった。

勢力拡大

家督を継いだ晴政はまず、南部氏の統一を行った。
謀反を起こした工藤氏を討ち、家臣により焼失させられた三戸城を再建して南部氏を統一した。

その後、1568年、晴政は養子・信直と共に大湯(現在の秋田県鹿角市十和田大湯)に着陣し、南部一族の九戸政実が三ヶ田城(現在の秋田県鹿角市八幡平三ヶ田)に入り、南北から挟撃する形をとると鹿角郡の安東軍は降伏させ鹿角郡を手中におさめ、南部氏の領土版図は、北は現在の青森県下北半島から、南は岩手県北上川中央部までに広がり、「三日月の丸くなるまで南部領」(旅で空の月が三日月の頃に南部領に入ると、連日歩いても領内を通り抜けられるのに満月になるまで日数がかかるぐらい、南部が治めている領地は広大だという意味)と謳われた。

晴政の側室

 ある初夏の出来事、家臣達を引き連れ鷹狩りに出掛け晴政。道中田んぼ道を通っていた際の出来事である。晴政が田んぼ道を通ると農民達は皆その場で平伏せて居ました。
 しかし、突然年頃17、18くらいの1人の美しい娘が「お殿様にお祝い申し上げます」と声をあげ、田んぼの泥を晴政の服や顔に塗りつけたといいます。(昔の時代には、通りかかりの者に泥を塗りつけるとその年は豊作、無益無病のになるという風習があったようです。)しかし、お殿様に向かって泥を塗りつけるとは打ち首もの、晴政もお怒りの事かと思われたが、「めでたい事である」と返しその場を通り過ぎて行ったそうです。
 城に帰った晴政は娘を城に招き入れ側室として置いたそうです。そして、晴政とこの娘の間に生まれた子供が晴政の後に南部家を継ぐ25代当主「晴継」になります。
しかし、南部家の資料の多くは信26代当主「信直」に都合の良いように作成されているものが多くあります。「晴継」の出生も「農民の子供」であると信直が考えた作り話かもしれません。