相馬家の主力として活躍し、家中の政宗暗殺計画に異を唱えた

水谷 胤重みずたに たねしげ

  ポイント

  • 相馬家の主力として活躍
  • 父・胤氏は伊達氏との戦いで討死したため叔父に養育された
  • 相馬家中内で伊達政宗暗殺計画がもちあがるとこれに異を唱え計画を阻止した

誕生・死没

  • 誕生:1538年
  • 死没:1606年

所 属

官職・役職

  • 不 明

親 族

鍋島直茂

略 歴


1538年 1歳  水谷胤氏の長男として誕生
 
1601年 62  家中の伊達政宗暗殺計画を阻止する

概 要

相馬家の主力として活躍した。関ヶ原合戦後、領内の通過を願う伊達政宗の殺害を唱える声が多い中で唯一反対し、政宗は無事領内を通過。この一件により、主家は改易を免れたという。

水谷家とは

旧相馬郡(現在の南相馬市小高区)水谷(みずがい)の地(現在の福島県南相馬市)に由来している。

地元では「みずがい氏」と呼称されており、同じ呼び方の姓の家が今も存在する。「水ヶ谷(みずがや)」が変じたものと考えられている。

育ての親

1538年、水谷胤氏の嫡男として生まれる。

生まれてすぐに父・胤氏は伊達氏との戦いで討死したため、胤重は叔父の水谷胤清に養育された。

相馬家での活躍

成人後は相馬氏の主力として各地に出陣し、活躍した。

関ヶ原の戦いの直前、東軍に味方していた伊達政宗が中立の相馬領を通過しようとして交渉の使者・原田宗資を送ってきた。

相馬氏家中では「長年の宿敵である政宗を討って恨みを晴らすべきだ」という声が高まった。これに対胤重であったが、「相馬氏は代々騙し討ちのような事はしてこなかった、名門らしく正々堂々と戦うべきだ」として反対論を述べた。

結局、主君の相馬義胤は胤重の主張を採用した。
その結果政宗は無事相馬家の領内を通過し、胤重に大変感謝したという。

相馬家滅亡の危機を救う

関が原合戦後、東西どっちつかずだった相馬家は徳川家に媚を売るため上杉の守る二本松城に夜襲を掛けた。(月夜畑の戦い)※この戦は相馬家が負けてしまう

しかし、徳川家は東西どちらにつくか曖昧だった相馬家を改易してしまう。
これに納得のいかない胤重は月夜畑で討ち死にした者の名簿を証拠として持参し、家康側近に評定のやり直しを願い出た。このとき、相馬家に恩がある伊達政宗も相馬の弁明を後押しした。
その結果、政宗の協力もあり、相馬家は無事改易を免れた。