相模三浦氏当主。鎌倉公方を裏切り扇谷上杉の傘下に降った

三浦 時高みうら ときたか

居城:新井城

概 要

相模三浦氏当主。新井城主。鎌倉公方・足利持氏によって相模守護を剥奪されたため、叛旗を翻し、関東管領上杉家と共に鎌倉公方・足利持氏を自害に追い込み。その後、扇谷谷上杉家の傘下に降った。その後、養子である道寸と対立しこれに破れ自害する。

 ポイント

  • 相模三浦氏当主
  • 鎌倉公方を裏切り扇谷上杉傘下に降る
  • 三浦道寸(養子)と家督争いを起こしこれに破れ自害する




誕生・死没

  • 誕生:1416年
  • 死没:1494年
  • 享年:78歳

同い年の武将

名 前

  • 義高(別名)
  • 聖庵(法名)
  • 三浦介(通称)

官 位・役 職

  • 幕府:相模守護

所 属

親 族

三浦高明
兄弟 時高、出口高信、女子(大森氏頼の正室)
高救
養子 高救(実父:上杉持朝)、義同(実父:高救)

略 歴


1416年 0歳  三浦高明の嫡男として誕生
父・高明が相模守護を剥奪
 
1438年 22歳  永享の乱が勃発
上杉家に寝返り鎌倉公方を攻める
扇谷上杉家に従って相模国主となる
 
1451年 35歳  義同(道寸)誕生
 
1462年 46歳  出家し家督を高救(養子)に譲る
 
1586年 70歳  高救・義同父子と対立し二人を追放
 
1494年 78歳  義同に攻められ自害する




永享の乱

★ 鎌倉公方を裏切り上杉傘下に降る

時高が生まれた年に父・高明が「上杉禅秀の乱」に加担したため、高明は鎌倉公方・足利持氏によって相模守護を剥奪された。そのため、三浦一族は鎌倉公方を憎んでいたとされている。

1438年、持氏と関東管領・上杉憲実が対立すると、持氏は上杉討伐のために鎌倉を出陣し武蔵高安寺に入った、この時、時高は鎌倉公方側に鎌倉の留守を命じられた。
ところが、室町幕府6代将軍・足利義教が持氏討伐を命じると、時高は鎌倉の守備を放棄し、上杉軍に寝返り、鎌倉を攻撃、占拠し、足利持氏・義久父子を自害に追い込んだ。

★ 永享の乱の結果

永享の乱以後、時高は扇谷上杉家に降り相模国主となり、時高は扇谷上杉家当主・上杉持朝の信頼を受けた。
また、嫡子に恵まれなかった時高は相模西部の大森氏頼と時高の姉妹の間に生まれた娘(時高には姪)を持朝の次男・高救に娶わせて婿養子とし、その間に生まれた義同もまた養子とした。

出 家

堀越公方・政知の重臣・渋川義鏡に謀反の疑いを掛けられ責任をとって出家する

古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏との間で「享徳の乱」が勃発すると、時高は持朝に従って各地で成氏側と戦った。一方で、8代将軍・足利義政の異母兄・政知の新公方擁立を図る。しかし、関東の情勢の不安定さをもって政知は鎌倉には入れず、伊豆堀越に入り、堀越公方と名乗った。
これに対して、堀越公方の重臣・渋川義鏡は堀越公方の鎌倉入りを妨害しているのは扇谷上杉家とその傘下である三浦氏・大森氏であるとし、反逆の疑いをかけた。これに時高は主君・持朝の代わりに責任を負って出家し家督を婿養子である高救に譲ることでで事態の収拾を図った。

跡目争い

跡目争いの対立から高救・義同父子を追放し実権を奪還

実子が居ないため家督を高救(上杉持朝の次男)に譲った時高だったが、後に実子である高教が生まれてしまう。時高は高教を高救の後継にしようと図り、高救・義同父子と対立する。

そんな中、扇谷上杉・上杉定正(高救の弟)が、重臣・太田道灌を暗殺して扇谷上杉家に動揺が広がると、高救が三浦氏の家督を義同に譲って扇谷上杉家に復帰して自らが当主になろうと画策した。これに激怒した時高は定正と共に高救・義同父子を追放して実権を奪還した。その結果、高救は安房国に、義同は母方の祖父の大森氏頼のもとに奔った。

最 期

大森家の支援を受けた義同が時高を攻撃

1494年、時高に追放され大森氏の許へ逃れた義同(この頃には出家し「道寸」と名乗っていた)が大森氏の支援を受けて挙兵して三浦郡を攻撃、新井城を攻め落として時高・高教父子を自害に追い込んだ。世の人々は「永享の乱で主君・足利持氏を裏切って攻め滅ぼした報いだ」と評したと言う。





異 説

義同の挙兵には謎が多い

近年、義同の挙兵・時高の自害について矛盾があることから異論が出ている。これは、この話が主に大森氏及び相模三浦氏を攻め滅ぼした後北条氏に関係があるとされる記録類から出た物が多く、これを裏付けするだけの証拠がないというのである。また、時高が没したとされる日よりほぼ1ヶ月前に大森氏頼が病死して大森氏の家中は後継者問題で混乱していたとも言われており、大森氏が義同のために兵を挙げるような状況ではなかったと考えられている。
そのため、時高の死と義同の三浦氏継承は事実であったとしても、その間に実際には何があったのかという点については不明な点も多い。従って、時高の死因も自殺か病死か、また義同への家督継承がどのような経緯を辿って行われたものなのかは明らかではない。