家康に仕え各地の戦いに従軍し戦功を挙げる

松平 忠正まつだいら ただまさ

桜井山菩提寺にある松平忠正の墓(右から2番目)

概 要

松平家次の長男。桜井松平家4代目。三河国碧海郡桜井城主(愛知県安城市桜井町)。始めは三河一向一揆に加担し家康と争っていたが、一揆が鎮圧すると家康に仕え各地の戦いで戦功をあげた。

 ポイント

  • 松平家次の長男。桜井松平家4代目
  • 三河一向一揆に加担し家康と争うが一揆が鎮圧すると家康に仕える
  • 長篠の戦いで活躍し信長から賞賛を受ける




誕生・死没

  • 誕生:1543年
  • 死没:1577年
  • 享年:35歳

名 前

  • 興一(与一)(通称)

所 属

親 族

松平家定
多劫姫
兄弟 忠正忠広
   菅沼定盈の正室、竹田定加(医師)の正室
  松平家広

略 歴


 
1543年 0歳  松平家次の嫡男として誕生
 
1563年 21歳  父と共に三河一向一揆に加担し家康と争う(一揆鎮圧後は家康に仕える)
 
1568年 26歳  掛川城の攻略に従軍
 
1570年 29歳  姉川の戦いに従軍
 
1573年 32歳  野田城の戦いで武田家に敗れ捕虜となる(その後、解放される)
 
1575年 33歳  長篠の戦いで戦功をあげる
 
1577年 35歳  死去




桜井松平家の誕生

☆ 松平信定(忠正の大祖父)が松平親房に婿養子にだされ、その家系が桜井松平家となる

桜井松平家の祖は・松平長親の次男・松平信定(家次の祖父)
長親の死後、信定の兄である信忠が松平家の家督を継いだが信定は一族・家臣からの人望に乏しく、また大将としての器量もなかったため、家臣達からは三男・信定の家督継承を望む声が多かった。また、信定は父・長親からの期待も受けたともいわれる。

しかし、信定は叔父・松平親房(親忠の四男、入道宗安)の婿養子に出され、松平家の家督は信忠の子・清康が継いだ。

宗家跡目の候補から外された信定は、叔父の所領・三河国碧海郡桜井(安城市桜井)に桜井城を築いて居城とし、桜井松平家の祖となった。

生 涯

☆ 家康との対立

忠正は桜井松平家の3代当主・松平家次の長男として誕生した。
桜井松平家は祖の信定の代から安祥松平家(松平家宗家)と敵対関係であり、忠正も当初は三河一向一揆に加担し松平家康(徳川家康)と戦った。
しかし、家康によって一揆が鎮圧されると忠正はそれまでの態度を替え家康に仕え、掛川城の攻略や姉川の戦い等に従軍した。

☆ 野田城の戦い

1573年、武田家が三河国へ侵攻、徳川家の野田城を攻撃した。忠正は援軍として城主・菅沼定盈と共に野田城に籠城した。しかし、武田家によって水の手を断たれ、定盈とともに武田方の捕虜となった。(『寛政譜』によれば、定盈・忠正の命と引き換えに兵卒を助命する交渉を行おうとしたが、信玄に捕らえられたという)。
その後、徳川方に出されていた山家三方衆の人質と交換され、菅沼定盈と共に帰参したという。

☆ 長篠の戦いで大活躍

1575年、長篠の戦いが勃発すると忠正は武田の軍兵若干を討ち取り、織田信長の感賞を受けたという。

忠正死後の桜井松平家

☆ 子の亀千代が幼少だったため家督は弟の忠吉が継ぐ

1577年、忠正は35歳の若さで死去した。
家督は子の亀千代(松平家広)が幼少であったため、弟の松平忠吉が家督を継承した。
なお、忠吉も1582年に若くして死去しており[4]、家督を継いだ家広を弟の松平忠広が後見した。