相模三浦一族。三浦氏が滅ぼされると安房国へ逃亡し里見家の重臣となる

正木 通綱まさき みちつな

概 要

相模三浦氏の一族(父についてはっきりわかっていない)。北条早雲によって三浦氏が滅ぼされると、幼児であった通綱は安房国に落ち延びた後、里見家の重臣となった。しかし、義豊に北条家への内通を疑われ稲村城で里見実堯ともども殺害された。(稲村の変)

 ポイント

  • 相模三浦一族(出自ははっきりとわかっていない)
  • 里見家重臣。安房国山之城城主
  • 謀反を疑われ主君・里見義豊によって殺害される




誕生・死没

  • 誕生:1492年
  • 死没:1533年
  • 享年:41歳

名 前

  • 弥次郎(通称)
  • 時綱(別名)
  • 正範(戒名)

官 位・役 職

  • 官位:大膳亮

所 属

親 族

三浦義同(異説有り)
正室 里見義通の妹
兄弟
三浦義意 、 二俣義正 、通綱
弥次郎 、 時茂時忠

略 歴


 
1492年 0歳  三浦義同の末っ子として誕生
 
1494年 2歳  三浦時高が三浦義同に殺害される
 
1516年 22歳  北条早雲によって三浦氏滅亡
通綱が安房国へ逃亡
 
1533年 39歳  里見義豊によって殺害される




出 自と安房への安房国入国時期について

☆ 通綱の出自には諸説ありそのどれもが信憑性にかける

通綱の出自には諸説には下記の4説があり、説により安房へ逃亡した時期も変わってくる。

1.三浦時高(義高)の子説

相模三浦家9代目当主・時高の子説、三浦時高の子だったという説。この説が確かであれば1494年の三浦氏の内紛で時高が義同に殺害された時に通綱は安房国へ渡ったとされている。
しかし、内紛について発生の事実そのものを証明する文献などは無いため信憑性にかける。

2.三浦義同の子説

義同は時高の養子で相模三浦家10代目当主。この説によれば、1516年に北条早雲によって三浦氏が滅ぼされた時に、幼かった通綱が安房国正木郷に落ち延びて、成長した後に、三浦氏と友好関係にあった里見氏に仕えその後、重臣に抜擢されたと言われている。
しかし、子供達の生没年と合致しないため信憑性にかける

3.三浦義時の子説

三浦義時は三浦義同の弟。義同の実父でまた時高の養子でもあった三浦高救が、養父によって廃嫡された後に安房に奔り、その子義時が正木姓を名乗って里見氏に臣従し、その実子あるいは婿養子が通綱であるというものである。
義時の実在が証明できないため信憑性にかける。

1~3の説は後年紀州徳川家の重臣となった三浦家の子孫(三浦長門守家)が、自らを三浦氏の嫡流とした系譜を創作した可能性が指摘されている。

4.内房地域に勢力を持った水軍勢力

古文書によれば、内房地域の水軍勢力に三浦氏の一族と思われる武士達が存在しており、その中に正木氏の存在も確認される。通綱も元は、こうした水軍を率いた三浦氏庶流の武将の一人であった可能性もある。





里見家の重臣

★ 里見義通から一字拝領を受けて通綱と名乗り、義通の弟・実堯配下の将として活躍

 里見家に仕えた通綱は里見義通の弟・里見実堯の配下となり上総国へと侵攻などで武功をあげ、里見義通の妹を正室に迎え「義通」から一字拝領を受けて「時綱」から「通綱」と名乗った。さらに1508年に造営された安房国鶴谷八幡宮の棟札(板札)には「副帥(関東の副将軍=古河公方の補佐役)源(里見) 義通」に続いて「国衙奉行平(正木) 通綱」の署名が記されている。
 その後も義通の後を継いだ里見義豊の命を受けて武蔵国品川湊への攻撃を指揮しており、安房国長狭郡及び三原・正木の2郷を領するなど、急速に里見氏の家中で発言力を増し、いつしか正木家は里見家重臣へ抜擢された。

稲村の変

★ 義豊と実堯が不仲になる

 家督相続の問題※1から里見義豊と実堯の関係が不穏になると、実堯に側近であり、急速に力を伸ばた通綱に対しても譜代の重臣の反発が高まるようになった。
※1…実堯は義豊が15歳になるまで後見人として家督を預かることになっていたが、義豊が15歳を過ぎても実堯は実権を義豊に返還しなかったためと言われている。

★ 稲村城で実堯と共に殺害される

 1533年、実堯と義豊の関係が悪化するなか、実堯が北条氏と通じているとの風評が流れた。そのため義豊は実堯と通綱が居る稲村城を襲撃、この戦いで通綱は実堯ともども殺害された(稲村の変)。

 なお、に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である『寛政重修諸家譜』では、通綱が実堯の子・義堯を擁して謀反を企てているとの糟谷石見守の讒言を受け、これを信じた義豊が実堯と通綱を襲撃し、通綱は襲撃時に腕に受けた矢傷が悪化して居城の山之城で死去したとされる。※2異説有り
また、この時、通綱の長男・弥次郎も義豊によって稲村城で殺害されたが、次男の時茂は難を逃れて山之城に逃げ帰ったという。

 ※2…古傷の悪化によって稲村城に登城しなかった通綱は殺害を免れたものの、脱出して山之城に逃げ込んだ直後に無理な移動が祟ってそのまま危篤状態となり死亡したとする伝承もある。