蠣崎家6代当主秀吉から蝦夷支配の朱印状を賜る

蠣崎 慶広かきざき よしひろ

  ポイント

  • 蠣崎家6代当主
  • 秀吉より蝦夷支配の朱印状を賜り独立大名となる
  • 家康に「蝦夷地図」を献上。苗字を松前に改める
  • 初代「松前藩」藩主

誕生・死没

  • 誕生:1548年
  • 死没:1610年
  • 享年:69歳

名 前

  • 天才丸(幼名)
  • 海翁(剃髪後)
  • 新三郎(別名)

所 属

官職・役職

  • 官位: 従五位下民部大輔、志摩守、伊豆守

親 族

  •    父  : 蠣崎季広
  •    母  : 河野季通娘・伝妙院
  •  正 室 : 村上季儀の娘
  •  側 室 : 斎藤宗繁の娘
  •  兄 弟 : 南条広継正室
  •  兄 弟 : 蠣崎舜広
  •  兄 弟 : 明石元広
  •  兄 弟 : 蠣崎吉広
  •  兄 弟 : 蠣崎守広
  •  兄 弟 : 下国師季の正室
  •  兄 弟 : 小平季遠室
  •  兄 弟 : 安東茂季正室
  •    子  : 松前盛広
  •    子  : 喜庭直信室
  •    子  : 松前忠広
  •    子  : 松前利広
  •    子  : 松前由広
  •    子  : 松前次広
  •    子  : 松前景広
  •    子  : 松前安広
  •    子  : 松前満広
  •    子  : 下国広季室

略 歴

1548年…蠣崎季広の三男として大館(松前)の館山城にて誕生
 
1578年…病弱な兄に代わり13歳で家督を継ぐ
 
1561年…長兄・蠣崎舜広が姉に殺害される
 
1562年…次兄・明石元広も姉に毒殺される
 
1582年…父・季広の隠居により家督を継いで当主となる。
 
1589年…安東氏の内紛「湊合戦」で湊通季を支持し、秋田実季と戦う
 
1590年…主家・安東実季の上洛に蝦夷地代官として帯同する。
 
1591年…秀吉に謁見を果たし蝦夷支配の朱印状を賜る、安東氏からの独立を果たし独立大名となる
九戸政実の乱が起きると、国侍として討伐軍へ参加した。
 
1593年…肥前国名護屋城で兵を率いて朝鮮出兵前の秀吉に謁見する。
秀吉から蝦夷での徴税を認める朱印状を賜りアイヌを制覇する。
 
1599年…家康への臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上しする
アイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで苗字を「松前」に改める。
 
1600年…家督を長男・盛広に譲る
 
1610年…徳川家康にオットセイを献上する
 
1615年…大坂夏の陣には徳川方として参陣した
 
1616年…剃髪して海翁と号した
死去

概 要

蠣崎家6代当主であり、松前藩初代藩主。蠣崎季広の三男1593年に「文禄の益」で備前名古屋に滞在する秀吉のもとに参陣し、これに感動した秀吉から蝦夷支配の朱印状を与えられた。
1599年姓を蠣崎から松前と改め松前藩の基礎をつくりあげた。

家督相続

1548年、蠣崎季広の三男として大館(松前)の館山城にて誕生。南条広継の正室となっていた姉に1561年、長兄・蠣崎舜広が、翌年1562年、次兄・明石元広が相次いで毒殺されたため、1582年、父・季広の隠居により家督を継いで当主となる。

安東氏からの独立

家督を継いだ慶広は出羽国比内郡の浅利氏解体(暗殺)など宗家・安東家(愛季)の勢力拡大に協力し安東家中での発言力を確保した。
1590年に豊臣秀吉が小田原征伐を終え奥州仕置を始めると、主家・安東実季の上洛に蝦夷地代官として帯同した。慶広は前田利家らに取りいって、同年、秀吉に謁見を果たすと、所領を安堵と同時に従五位下・民部大輔に任官された。これにより名実共に蝦夷管領の流れを汲む安東氏からの独立を果たした。さらに慶広は1590年10月に津軽海峡を渡り、上洛している。

九戸政実の乱

1591年、南部地方で九戸政実の乱が起きると、豊臣秀吉の命により国侍として討伐軍へ参加した。『三河後風土記』には、アイヌが用いた毒矢が大変な威力であることが記されている。

蝦夷支配の確立

1593年1月に肥前国名護屋城で兵を率いて朝鮮出兵前の秀吉に謁見した。秀吉は「狄の千島の屋形」が遠路はるばる参陣してきたことは朝鮮征伐の成功の兆しであると喜び、従四位下・右近衛権少将に任じようとするが、慶広はこれを辞退した。慶広は代わりに蝦夷での徴税を認める朱印状を求め、秀吉はこれを認めると共に志摩守に任じた。慶広は朱印状を領民に示すと共に、アイヌを集めてアイヌ語に翻訳し、自分の命に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来ると伝え、全蝦夷地(樺太、北海道)の支配を確立した。

徳川政権への対応

1598年に秀吉が死去すると、慶広はすぐに徳川家康と誼を通じた。1599年には家康への臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上した。また、アイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで慶広とその子供たちのみ苗字を松前に改めた。
1600年には家督を長男・盛広に譲り、盛広も従五位下・若狭守を賜ったが、その後も慶広が政務を司った。

松前の発展

1604年、家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下伊豆守に叙位・任官された。これらを以って、松前氏を大名格とみなし、慶広を松前藩の初代藩主とするが、正式な家格は交代寄合である。

1609年に猪熊事件(朝廷の内紛)が起きて左近衛少将・花山院忠長が蝦夷・上ノ国に配流された。慶広は忠長を城下の福山(松前)で賓客として厚遇した。
忠長は5年で津軽へ移されるが、京都の公家に誼を得たことで、松前家には以後累代に渡って公家との婚姻が続き、松前家の格を高めると共に、松前に京都の公家文化をもたらした。

大阪夏の陣と晩 年

大坂夏の陣には徳川方として参陣した。なお、1614年に豊臣氏に通じたとして、親豊臣派であった四男・由広を誅殺している。

1616年、剃髪して海翁と号した。10月12日に死去。享年69。長男・盛広は早世していたため、嫡孫である盛広の長男・公広が後を継いだ。