佐竹義重の三男。岩城常隆の養子となり岩城家を継ぐ

岩城 貞隆いわき さだたか

龍門寺

貞隆の墓がある龍門寺

  ポイント

  • 佐竹義重の三男
  • 岩城常隆の養子となり岩城家の家督を継ぐ
  • 関ヶ原合戦に出陣せず改易されるが、大坂の陣に参加し、信濃川中島1万石を与えられる

誕生・死没

  • 誕生:1583年
  • 死没:1620年
  • 享年:57歳
  • 墓所:秋田県由利本荘市岩城赤平の竜門寺
  • 墓所:東京都板橋区小豆沢の総泉寺

名 前

  • 能化丸(幼名)、定隆(別名)、忠次郎(通称)

官位・幕職

  • 但馬守

親 族

佐竹義重 、 岩城常隆(養父)
宝寿院(伊達晴宗の娘)
正室 慶雲院月庭清心/桂雲院月庭清心大姉(相馬義胤娘)
兄弟 佐竹義宣(兄)、蘆名義広 江戸実通室(後高倉永慶室)、岩城宣隆佐竹義直
   江戸実通室(後高倉永慶室)、佐竹宣家、義直
佐竹義直(東家)の正室、佐竹義隆、天教院(黒田長興正室)

略 歴


1583年 0歳  佐竹義重の三男として誕生
 
1590年 7歳  岩城常隆が病死したため家督を継ぐ
 
1600年 17歳  関が原の戦いでは中立の立場を保った
 
1602年 19歳  改易され全領地没収
 
1615年 32歳  大阪夏の陣で活躍
 
1616年 33歳  信濃国中村に1万石を与えられ、大名として復帰
 
1620年 38歳  死 没

概 要

佐竹義重の三男。岩城常隆の養子となり岩城家を継ぐ。実兄・佐竹義宣と共に関ヶ原合戦に出陣せず改易された。のちに大坂の陣に参加し戦功をあげ、信濃川中島1万石を与えられた。

岩城家継承

1583年、佐竹義重の三男として生まれる。
岩城家当主・岩城常隆が1590年の小田原征伐に参陣後すぐに鎌倉で病死した。
貞隆が岩城家の家督を継いだ。常隆には政隆という実子がいたが、幼少であったことや、豊臣政権の都合により、貞隆が養嗣子として岩城氏を継承した。常隆の実子・政隆は岩城領を追われて祖父の実家である伊達氏に逃れたという。
その後、豊臣秀吉からも岩城氏の家督継承を認められ磐城平12万石を安堵された。

岩城家滅亡

1600年、岩城家は「関ヶ原の戦い」で当初は東軍方についていたが、兄・佐竹義宣の命令に従って佐竹家と共に中立の態度を取った。そのため、戦後の1602年に佐竹義宣と共に改易処分にあった。
佐竹家は減封で済んだが、岩城家は全ての所領を没収された。大名としての岩城家は滅亡した。

関が原合戦後

貞隆は同じく中立の立場の相馬家が再興したことに希望を見出し、自らも岩城家再興を願うべく江戸に登って浅草で浪人し、再興運動に奮闘、飯野八幡宮に度々祈願した。しかし、大名としての地位を失った貞隆のもとからは多くの家臣が離散。

その後、再興運動の甲斐もあり、徳川家の側近・土井利勝の厚意を受け、本多正信の組となり300人扶持となった。

大阪の陣と大名復興

1615年、「大坂夏の陣」で正信に従って従軍し、戦功を挙げたため、1616年に信濃国中村に1万石を与えられ、岩城家は大名として復帰した。

関ヶ原の戦い以降、険悪な関係が続いていた実兄・佐竹義宣とも実母の仲介によって和解し、和解後、義宣は資金面などで貞隆の御家再興に積極的に援助を行ったとされていう。そして程なく1620年死去、享年3歳であった。

岩城貞隆浅草御浪人中随身諸士名元覚の四十二士

貞隆の浪人時代を支え、我が身を省みず随従した24人の武将が描かれている『岩城貞隆浅草御浪人中随身諸士名元覚』なるものが存在している。