葛西大崎一揆で奮戦するが敗れる

一栗 高春いちくり たかはる

 ポイント

  • 大崎家家臣で一栗城主
  • 葛西大崎一揆では一揆側として奮戦
  • 一揆にて敗戦後は最上家に仕える

誕生・死没

  • 誕生:?年
  • 死没:1614年
  • 享年:?

官職・役職

  • 官位:豊後守、兵部

親 族

略 歴

1590年 不明  大崎葛西一揆が勃発し敗戦する
 
1614年 不明  謀反を起こし最上家により誅殺される

概 要

元は大崎家臣で一栗城主。葛西・大崎一揆の際は居城に籠城し、最後まで奮戦したが敗戦したため落ち延びた。
その後は最上家に仕え、鶴岡城番を務めたが、謀叛を起こして誅殺させられた

葛西大崎一揆

1590年に葛西大崎一揆(葛西・大崎氏らの旧臣による新領主である秀吉家臣・木村吉清・清久父子に対する反乱である。)が勃発すると。高春は一揆側として居城・一栗城に篭城した。
しかし、いざ合戦が始まると討伐軍である伊達政宗は一栗城を素通りし一揆側の本拠・左沼城へと向かった。
これに対し高春はすぐさま左沼城に向かい一揆軍と合流。伊達政宗に対して
「伊達どのは木の葉猿にも劣りたり栗一つをば落とし得ざるを」
と記した短冊を放ちののしった。
いっぽう政宗は「よそにのみ見れば木の間の一つ栗終わりに猿の餌食なるべし」と返し、大薙刀を車輪の如く振るい戦う高春の剛胆さを惜しんで生け捕りを命じたという。
高春の奮闘むなしく乱は鎮圧され、高春は出羽に落ち延びた。

最上家の家臣として

出羽に落ち延びた高春はその武勇を最上義光に買われ、最上家の家臣として1000石で召抱えれることになった。
高春は最上家で田川郡添川楯主(または鶴ケ岡城番)を務めたという。
しかし、1614年の大坂冬の陣直前に、義光が亡くなり最上家親が家督を継ぐと、高春はこれに反発、義光の三男・清水義親を擁立して、鶴ケ岡城下の新関因幡守邸にて亀ケ崎(酒田)城主の志村光惟と大山(尾浦)城主の下次右衛門を襲撃して殺害、添川楯に立て篭った。
しかし、最上家も家臣・新関久正に鎮圧され討死したという。一説には大阪方へ内通したとも云われている。