南部晴政の叔父であり、智勇を兼ね備えた南部氏のNo2

石川高信いしかわたかのぶ

大仏公園

居城・石川城址

  ポイント

  • 南部張晴政の叔父であり信直の父
  • 南部家のナンバー2
  • 津軽為信に破れ津軽地方を奪われる

誕生・死没

  • 誕生:1495年
  • 死没:1571年?
  • 死没:1581年?
  • 享年:67歳
  • ※大浦為信による石川城攻撃の際に落ちのびた説有り

名 前

  • -資料無し-

官職・役職

  • 左衛門尉

親 族

略 歴

1495年…南部家第22第当主南部政康の次男として生まれる
 
1569年…鹿角郡に侵攻してきた安東愛季軍を撃退する
 
1571年…高信死去(津軽氏側と南部側の資料に食い違いがあるため没年ははっきりしていない)

概 要

南部家臣。南部政康の次男。津軽郡代として甥・晴政を補佐し、南部家の勢力拡大に大きく貢献した。のちに家臣・大浦(津軽)為信の謀叛により、自害した。

高信の出生

高信は南部安信の弟で、晴政の叔父とする説が定説化しているが、この説が史実だとすると、高信は子供(信直、政信)を当時としてはかなりの高齢で生んでいる。しかし、南部家の資料に残る最も古い家系図には、南部信直(石川高信の子で晴政の養子)は南部晴継(晴政の実子)の従兄弟の記述されている。つまり高信と晴政が兄弟だったという事だ。この系図をもてば、2人の子供の年齢も納得出来るものになる。
しかし、1799年に作成された、南部家の家系図には高信は晴政の父安信の弟としている。一般に普及されている南部家の資料はこの家系図の流れを元にして作成されているため、前者の説明が普及したと思われる。

南部家のNo2

盛岡藩の古文章によると高信は智勇共に優れ兄の安信から絶大な得て、津軽地方の統治を任されていたと記載されている。安信の後を継いだ晴政の時代になっても、若年の晴政をよくサポートしその影響力は変わらず、重要されたと言われている。
南部氏の津軽地方の支配は高信の力が大きかったため、高信が死去すると南部氏は津軽地方の影響力を失い津軽氏によって津軽地方を奪われてしまった。

高信の没年

一般的に高信の死因は大浦為信に攻められ自害したと伝えられているが、南部家の資料の中には高信は外出中に城を攻められ生き延び、1581年に病死によりこの世を去ったという説もある、これは、弘前市にある大行院に残っている資料に高信の生存を記述している資料があるからである。