甥の政宗と対立後、軍門に降る

石川 昭光いしかわ あきみつ

結城晴朝

 ポイント

  • 伊達晴宗の四男
  • 石川家へ養子に入る
  • 佐竹氏に従い政宗と対立するが後に軍門に降る
  • 小田原征伐に参陣せず領地を没収され伊達一門に復帰する

誕生・死没

  • 誕生:1550年
  • 死没:1622年
  • 享年:73歳

同年代の人物

名 前

  • 小二郎(通称)
  • 伊達小二郎→石川親宗→昭光

墓 所

  • 宮城県角田市 長泉寺

所 属

官職・役職

  • 官位:従五位下佐衛門太夫、大和守

親 族

略 歴

1550年 1歳  伊達晴宗の四男として誕生
 
1563年 14歳  石川晴光の養嗣子となる
 
1568年 19歳  石川晴光の隠居に伴い石川家当主となる
 
1570年 21歳  足利義昭に拝謁する
従五位下佐衛門太夫に任ぜられ、偏諱を賜い昭光と改称する
 
1574年 25歳  三芦城への帰城が実現
 
1584年 35歳  伊達家の当主が政宗に代わる
伊達家が蘆名氏・佐竹氏との対立姿勢を強めたため伊達家と対立する
 
1589年 40歳  摺上原の戦いで伊達氏が蘆名氏を下す
伊達家の軍門に降る
 
1590年 41歳  奥州仕置にて領地を没収される
 
1591年 42歳  伊達一門に復帰し志田郡松山城6,000石を賜わる
 
1593年 44歳  文禄の役に出陣
 
1595年 46歳  帰国
 
1598年 49歳  伊具郡角田城を賜わり角田城に移住する
 
1600年 51歳  白石の役に参陣する
 
1603年 54歳  嫡男・義宗に家督を譲り隠居する
 
1614年 65歳  大阪冬の陣に参陣
 
1622年 73歳  角田城にて死没

概 要

伊達晴宗の四男。後に陸奥石川郡芦名城主・石川晴光の養子となる。佐竹氏に従い甥の政宗と対立するがのちに伊達氏に従った。小田原征伐に参陣しなかったため領地を没収され伊達一門に復帰し一門の筆頭に列せられた。

出生と石川家に養子へ

1550年、伊達晴宗の四男として羽州長井荘(現在の山形県米沢市)で誕生。
1563年10月、陸奥国石川郡三芦城主・石川晴光の養嗣子となる。晴光の娘・照子を娶り、小二郎親宗(ちかむね、「宗」は実家・伊達氏の通字により)と改称する。この時、伊達氏より佐藤信景以下6名が随従し石川氏家臣となる。
1568年3月、養父・晴光の隠居に伴い家跡を相続し、第25代石川家当主となる。
1570年2月には上洛し室町幕府15代将軍・足利義昭に拝謁する。このとき、従五位下佐衛門太夫に任ぜられ、偏諱を賜い昭光と改称する。元亀元年(1570年)、大和守に任ぜられる。

旧領復帰

1574年、蘆名盛氏が佐竹義重と白川郡、石川郡の覇権、支配権をめぐって戦う。石川家は佐竹側に付いた
蘆名氏の支援を受けていた白河氏が佐竹氏に大敗し、同地を失うと、同年6月、石川晴光・昭光の三芦城への帰城が佐竹義重への服属によって実現、決定された。
『伊達治家記録』によれば、この年10月、実兄・伊達輝宗から昭光の帰城の御祝儀として、馬一匹、奥方には染物を贈呈される。閏11月には、輝宗が昭光を含む関係諸家の調停に奔走して蘆名氏・白川氏と佐竹氏の講和が実現した

奥州戦乱

1573年12月隣国の田村氏が二階堂領を攻め、さらに勢いに乗って蘆名・白川領まで攻め入っていた。
1575年9月、蘆名氏は安積郡西部の大槻(郡山市大槻町)を田村勢に攻められ、10月には蘆名勢が北部の久保田(郡山市富久山町)を攻め返した。
輝宗は石川氏と連携して田村氏・相馬氏の牽制を図るが、石川昭光は伊達家を見限り田村・佐竹氏側についた。
(石川氏がこのような態度をとった背景には昭光の養父・晴光が健在であり、その母が田村氏の出であった事も要因の一つと考えられる。)

1576年、田村清顕は佐竹氏と共に蘆名方の長沼城を攻めている。ところが、この年の9月に入って田村清顕が突然佐竹氏と同盟を破棄して蘆名氏と同盟を結び、1577年には蘆名・田村連合軍が石川領を制圧して、晴光が一時黒川城に連行されている。

伊達家への降伏

1584年、伊達家の当主が伊達政宗へ代替わすると政宗は蘆名氏・佐竹氏との対立姿勢を強めるようになり、佐竹氏に従っていた昭光は伊達氏と敵対するようになった。
1585年、人取橋の戦いでは、他の南奥諸大名と共に義兄・佐竹義重についた。
1589年の摺上原の戦いで伊達氏が蘆名氏を下し、須賀川の二階堂氏をも下すと、石川昭光と白川義親はついに降参し伊達氏の軍門に属した。
翌年には昭光に関東方面対応として須賀川城を与えられた。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に、昭光は白川義親らと共に、刀剣・駿馬などをもって政宗に託し、太閤に献じて謝してもらうよう懇願したが、秀吉に参陣しないことを咎められ奥州仕置にて、三兄・留守政景、白川義親らと共に改易され、領地没収となった。
そのため、1591年、昭光は政宗から、志田郡松山城6,000石を賜わり、松山城に移住した。以後は伊達氏に属し、御一門筆頭の家格を与えられる。

その後の動き

1592年、秀吉より朝鮮出兵の命が伊達氏に下され、昭光も政宗に従い1593年には文禄の役に出陣した。
1598年10月、2,000石を加増され、伊具郡角田城を賜り、角田城に移住する(角田城は伊達成実の居城であったが、上洛の後、出奔し、城を収められ、知行主不在の状態であった)。
1600年7月、関が原の戦いで西軍についた上杉景勝と戦うため刈田郡白石の役に昭光と義宗が兵を率い参陣する。

隠 居

1603年、家督を嫡男・義宗に家督を譲って、村田に3,000石を賜い隠居する。
しかし、義宗が1610年11月に病死し(享年34)、嫡孫・宗敬はまだ幼少(4歳)だったため、政宗の命により後見人として角田城に戻り政務を執ることになる。
1614年、大坂冬の陣に昭光は兵を率いて参陣した。続いて、翌年の慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際は、昭光は病身であったため、家臣の泉光理を名代として兵を率い、伊達軍に参陣させた。
1621年、村田にて賜った3,000石の知行のうち、2,000石を加増され、合高1万2,000石を嫡孫の宗敬に引き継ぐ。
1622年7月10日、角田城にて死去。享年73。殉死者7名。