応仁の乱を今川家8代当主。義元の祖父

今川 義忠いまがわ よしただ

概 要

今川範忠の嫡男。今川8代当主。義元の祖父。応仁の乱では東軍に属し、遠江国へ進出するなど今川家の拡大に努めた。
幕府側に寝返った国人を打ち取った直後に残党にやられたため、反逆者として戦死し、その後の今川家の内紛のきっかけを作った。

 ポイント

  • 今川範忠の嫡男で今川家8代当主
  • 遠江国の奪還を図った
  • 反逆者として戦死し、その後の今川家の内紛のきっかけを作った




誕生・死没

  • 誕生:1436年
  • 死没:1576年
  • 享年:40歳
  • 死因:討死
  • 墓所:静岡県静岡市葵区大岩町臨済寺
  •    静岡県菊川市正林寺

同い年の武将

名 前

  • 龍王丸(幼名)
  • 彦五郎(通称)

所 属

親 族

今川範忠
北川殿(伊勢盛定(北条早雲の兄)の娘)
兄弟 義忠、範勝、範慶
正親町三条実望室、氏親、心範

略 歴


 
1436年 0歳  今川範忠の嫡男として誕生
 
1441年 6歳  嘉吉の乱
 
1454年 19歳  足利成氏討伐に出陣し鎌倉を攻略(享徳の乱)
元服し将軍・義政の偏諱を受け「義忠」と名乗る
 
1461年 26歳  駿河守護職を継承
堀越公方・足利政知への援助を申し受ける
 
1466年 31歳  足利成氏討伐を命じられる
 
1467年 32歳  応仁の乱勃発
東軍側として1,000騎を率いて上洛する
 
1468年 33歳  遠江国へ進出を図り斯波氏と対立
 
1473年 38歳  尾張国守護・斯波義良と細川成之敵対する
 
1476年 40歳  一揆に襲撃され討死する




家督相続まで

☆ 駿河国守護。今川家7代当主・今川範忠の嫡男として誕生する

1436年2月、駿河国守護。駿河今川家第8代当主である今川範忠の嫡男として誕生した。
その5年後、1441年の「嘉吉の乱」に際しては、父・範忠の名代として1,000騎を率いて尾張国まで出陣している。

☆ 「享徳の乱」の軍功により将軍・義政の偏諱を受け元服する

1454年、「享徳の乱(鎌倉公方の反乱)」が勃発すると、室町幕府は今川家に鎌倉公方・足利成氏討伐を命じた。
義忠は父の名代として出陣し、鎌倉を攻略した功により、第8代将軍・足利義政から感状を受けた。なお元服して将軍・義政の偏諱(「義」の字)を受け義忠(「忠」は父・範忠の1字)と名乗ったのは、この前後と推測される。

☆ 父の危篤を受けて駿河守護職を形象する

1461年、父の危篤を受けて駿河守護職を継承した。義忠が26歳前後の頃。

応仁の乱

☆ 対立関係であった遠江守護・斯波家に対抗して東軍に属す

1467年、「応仁の乱」が勃発すると、義忠は堀越公方・足利政知と足並みを揃え1,000騎を率いて上洛した。
山名宗全からの西軍への勧誘の動きもあったが、そもそも将軍警固のために上洛したことを理由に東軍が占拠している花の御所へ入り、そのまま東軍へ属した。西軍であった遠江守護の斯波義廉との、かねてからの対立関係から東軍に属したと考えられている。 翌1468年、義忠は東軍総大将・細川勝元からの要請を請け、東海道にある斯波義廉の遠江国への進出を行うべく駿河へ帰国した。

☆ 上洛中に結婚する

義忠は上記の上洛中に、伊勢新九郎(北条早雲)の姉妹である北川殿と結婚したと考えられている。
理由については、北側殿の父・盛定は今川家と将軍御所の取次役を務めており、その縁で北川殿が義忠に嫁いだと言われている。

遠州出征

★ 斯波義良(尾張守護)、細川成之(三河守護)との対立

駿河に帰国した義忠は、積極的に遠江への進出を図り、斯波氏や在地の国人と戦った。
1473年、には美濃国守護代格・斎藤妙椿から攻撃された東軍の三河国守護・細川成之を支援するため、将軍の命により三河に出陣した。
ところが兵糧用として将軍から預けられた所領を巡って、同じ東軍の尾張国守護・斯波義寛と対立する。
さらに、遠江の国人・巨海氏、狩野氏とも対立し、義忠はこれら国人を滅ぼしてしまった。これにより、同じ東軍であるはずの斯波義良、細川成之とも敵対することになった。

★ 混沌する遠江情勢

1475年義廉の重臣・甲斐敏光を西軍から寝返らせた東軍は、甲斐を遠江守護代として任じた。
これにより同じ東軍ながら、遠江から(義良・義廉を問わず)斯波氏勢力を締め出したい野心を抱く義忠と甲斐氏の関係が悪化し、遠江の情勢は混沌とする。
甲斐と斯波義良は遠江へ下向し軍事的に圧力を強め、義忠もまた遠江へ出陣して斯波義良方の国人と戦った。

最 後

★ 流れ矢に当たって討ち死

1476年、義忠は斯波義良方に寝返った、遠江の国人・横地氏と勝間田氏の討伐に出陣した。
勝間田城と金寿城(横地城:横地氏の拠点)を囲み、両人を討ったものの、その帰途の夜、遠江小笠郡塩買坂(現在の静岡県菊川市)にて横地氏と勝間田氏の残党による一揆に不意を襲われた。
義忠は必死に防戦するが、最後は流れ矢に当たって討ち死した。
※塩買坂は金寿城から駿府へ戻る経路とは反対方向にあり、金寿城で敗走した義忠が、坂の南にあった今川氏方の新野城に落ち延びる途中で討たれた可能性を指摘する説もある。

★ 忌 日

忌日には諸説あるが、『太田道灌状』に道灌が(小鹿範満に加担するため)駿河に出陣したのが3月と記されているため、『今川記』に記載の2月19日に忌日とみられる





死 後

★ 謀反人として扱われた義忠

『今川記』などでは、横地・勝間田の両名をあたかも幕府に背いた謀叛人であるかのように記しているが、内通先は幕府から任じられた守護の斯波義良である。
むしろ両名は幕府・守護の指示に従ったにすぎず、これを攻撃して討たれた義忠の方が幕府に反抗した謀叛人という事になってしまう。

★ 反逆者として残された子孫

義忠の不慮の死により、僅か4歳の龍王丸(のちの氏親)が残されたが、義忠の行為によって龍王丸は幼少といえども生母である北川殿ともども反逆者の家族として討たれる可能性が生じた。
このため今川氏では、義忠の従弟の小鹿範満が家督継承を主張して内紛状態を起こしたばかりか、享徳の乱では幕府(東軍)と協力関係にあった扇谷上杉家(家宰・太田道灌)が範満の外戚として介入する懸念すら生じた。
この時、範満や道灌は龍王丸を討つことも考慮していたとみられている。

★ 北条家誕生のきっかけ

義忠死去の経緯から幕府が龍王丸の保護に乗り出す必要が生じていた。そのため、今川氏の内紛を調停(実際は龍王丸の保護)するために、伊勢盛時(後の北条早雲)が駿河へ下向した。
このことが盛時と今川氏との絆を強め、後の盛時の関東進出と後北条氏誕生の契機になる。