陸奥方面における佐竹家の先鋒として活躍した

船尾 昭直ふなお あきなお

  ポイント

  • 佐竹義昭・義重・義宣の3代に渡って仕る
  • 陸奥方面における佐竹家の先鋒として活躍
  • 滑津城城主

誕生・死没

  • 誕生:不 明
  • 死没:不 明

名 前

  • 九郎三郎(通称)

所 属

官職・役職

  • 官位: 兵衛尉・山城守

親 族

  •   父  : 船尾隆直
  •   子  : 船尾義綱
  •   子  : 林勝貞
  •   子  : 矢田野顕義室

略 歴

1553年 ?歳  佐竹義昭から偏諱を受け「昭直」と名乗る
 
1575年 ?歳  滑津城を与えらる
 
1585年 ?歳  矢田野顕義に娘を嫁がせる

概 要

佐竹家に属し義昭・義重・義宣の3代に渡って仕え、南奥陸奥方面の諸将との交渉役や佐竹家の先鋒として活躍し滑津城を与えられた。

船尾家の出自

船尾氏は元は陸奥国・岩城氏の子孫である。11代当主・岩城常隆の子・隆輔(隆相)が、岩城氏と対立していた岩崎氏の滅亡後にその本拠地であった船尾(現在の福島県いわき市)を与えられたことに始まるった。
しかし、岩城氏の最前線に立たされ度々所領を失う危機に見舞われると、隆輔の子・隆直は1553年頃から常陸国の佐竹氏に従属した。また、戦国中期には後北条氏とも関係を結び、弘治年間に船尾氏が所領を失った際には、北条氏康と佐竹義昭が共同で圧力をかけて隆直(昭直の父)を復帰させている。

元 服

生年は不明だが、船尾隆直の子として誕生した。昭直は昭直は早い時期から佐竹義昭・義重に仕え、1553年には主君・佐竹義昭の偏諱を受け昭直を名乗った。

佐竹家での活躍

昭直は主に南奥の諸将との交渉役となる。高野山へ出奔しようとした石川晴光(道堅)の説得や白河結城氏と佐竹氏・岩城氏の和睦交渉にあたるなどの活躍をみせている。
このような活躍もあり1575年には滑津城を与えられ、赤館城の佐竹義久と共に佐竹氏の南陸奥の先鋒となった。

佐竹義重の次男・喝食丸(後の蘆名盛重)が白河結城氏の養子に入ったときは後見を務め、以後佐竹氏・白河結城氏・岩城氏と何らかの主従関係を持つことになった。
その後、喝食丸が改めて蘆名氏の養子となった際に、昭直は会津には同行せず、この関係が蘆名氏の滅亡まで継続されることになる。

戦国後期

1589年、伊達家が蘆名氏・二階堂氏を滅ぼすと、近隣諸国はこぞって伊達方に寝返り、昭直の居城・滑津城は伊達方の武将に取り囲まれる形になってしまう。
昭直も伊達方への寝返りを申し入れたものの政宗からは許されず、伊達氏及びその傘下の石川氏・浅川氏によって何度も攻め込まれて辛うじて踏みとどまるが、佐竹義重の命により兵を退く。
その直後の豊臣政権における宇都宮仕置によって滑津城は白河結城氏・石川氏らの旧領と共に会津領に編入され、残された他の所領も1595年に行われた大規模な知行割替によって茨城郡1600石に移封された。移封は子・義綱に対して行われており、この時には昭直は死亡もしくは隠居していたと考えられている。

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