北条2代目として着実に関東に地盤を築いた

北条 氏綱ほうじょう うじつな

北条氏綱

北条氏綱 肖像画

  ポイント

  • 早雲の嫡男で北条家2代目
  • 初めて「北条」の姓を使用
  • 北条氏康の父
  • 第一次国府台合戦に勝ち、関東に地盤を築いた

誕生・死没

  • 誕生:1487年
  • 死没:1541年
  • 享年:55歳

同年代の人物

名 前

  • 伊豆千代丸(幼名)
  • 新九郎(通称)

所 属

官職・役職

  • 官位: 従五位下 左京大夫、贈従三位

親 族

略 歴

1487年 1歳  北条早雲の嫡男として誕生
 
1512年 25歳  小田原城の城主となる
 
1518年 31歳  家督を継ぐ
本拠地を小田原に移す
 
1521年 35歳  早雲寺を造営
 
1523年 36歳  姓を「北条」と改正する
 
1524年 38歳  江戸城・岩槻城を攻略
 
1526年 40歳  里見家に鎌倉を襲撃される
 
1527年 41歳  小弓公方と和睦が成立
 
1530年 44歳  小沢原の戦いで扇谷上杉に勝利
 
1537年 51歳  河越城を攻略
 
1538年 52歳  葛西城攻略
足利・里見連合軍に大勝し、小弓公方を滅ぼす(第一次国府台合戦)
古河公方から関東管領に補任される
 
1541年 55歳  死 去
 

概 要

北条早雲の嫡男として生まれ、江戸城・岩槻城・河越城を攻略し関東中部に進出し着実に関東に地盤を築いた。
社寺を造営し内政にも力を注いだ。また、「北条」の姓を初めて使用した。

家督相続

1487年、北条早雲の嫡男として生まれる。
従来、早雲は没年88歳とされていたが、これを64歳とする説が唱えられており、その説によれば、早雲が32歳の時に氏綱が生まれたことになる。
母は幕府奉公衆小笠原政清の娘・南陽院殿。幼名は伊豆千代丸。元服後には父と同じ通称である新九郎を称した。氏綱が生まれた年に父・早雲は小鹿範満を討って、甥の龍王丸(のちの今川氏親)を今川家の当主に据えており、その功により興国寺城主となっている。

1512年には早雲の後継者として活動していたことがうかがえ、早雲が大森氏から奪取した相模国小田原城に在番していたと推定されている。
1518年に、早雲の隠居により家督を継ぎ、当主となり、1519年に早雲が死去したため、名実共に北条氏の当主となった。
当主となった氏綱は父・早雲が抱いていた関東雄飛のの夢を実現すげく本拠地を伊豆の韮山城からそれまで在番していた相模の小田原城を本城化させた

どうやって「北条」への改姓したのか?

伊豆国に侵攻して領国化し、さらには相模国をも平定した北条家であったが、、山内・扇谷両上杉氏をはじめとする旧来からの在地勢力からは「他国の逆徒」と呼ばれて反発を受けていた。そのため。氏綱は領国支配を正当化するために自らを関東とゆかりの深いものここでいう「鎌倉北条」家の末裔であることが大事だった。
実は早雲の時代からこの発想があり、氏綱が実現したとされている。
しかし、氏綱がどのようにして「北条」姓を名乗ったのかは今だはっきりとわかっていないが下記に有力な説をまとめてみた。

説① かってに名乗った説

タイトルのまま勝手に名乗っていたとされる説。

説② 北条行長の養子説

早雲が北条氏末裔の北条行長の養子となった説。

説③ 正室・養珠院殿が北条家の出身説

近年の調査では正室の養珠院殿が執権北条氏の末裔とされる横井氏(横江氏)の出身であった可能性が指摘されている。

説④ 朝廷に許しを得て

朝廷に願い出て正式に認められた説。

説⑤ 扇谷上杉家への敵対意志

北条改称は氏綱による扇谷上杉家への一種の敵対表明であり、これをきっかけに氏綱は扇谷上杉領へ進出に踏み切り、翌年の江戸城攻略に至ったとする説もある。

扇谷上杉氏との攻防

氏綱は1523年までに武蔵国南西部一帯を支配、さらに武蔵国西部・南部の国人を服属させている。これに危機感を持った扇谷上杉朝興は山内上杉家と和睦をして氏綱に対抗しようとするが、1524年正月に氏綱は武蔵に攻め込んで高輪原の戦いで扇谷勢を撃破すると太田資高を寝返らせて江戸城を攻略する。
江戸城を攻略後すぐに追撃を開始して、板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取る。さらに太田資頼の寝返りにより、岩付城を攻撃して落城させ太田(太田資頼の兄)を討ち取った。続いて蕨城も攻略し、また、毛呂城(山根城)城主の毛呂太郎・岡本将監が北条方に属したため、毛呂~石戸間を手中におさめ敵の松山城~河越城間の遮断に成功する。

これに対して扇谷上杉朝興は山内上杉憲房の支援を受けて態勢を立て直すと、古河公方足利高基と和睦し、さらに甲斐守護武田信虎とも結んで反撃を開始した。
さらに太田資頼が上杉朝興に帰参してしまい。朝興からの要請により武田信虎が武蔵国まで出張り岩付城を攻め落とした。これを背景として、太田資頼は岩付城に復帰することができた。氏綱は朝興と和睦を結び、毛呂城引き渡しを余儀なくされた。


北条包囲網

1525年に氏綱は和睦を破って岩付城を奪還するが、朝興は山内上杉憲房・憲寛父子との連携のもとで逆襲にあい、武蔵の諸城を奪われ、相模国玉縄城にまで追い込まれた。朝興は関東管領山内上杉家、古河公方、甲斐の武田信虎のみならず、早雲時代には後北条氏と友好関係にあった上総国の真里谷武田氏、小弓公方そして安房国の里見氏とも手を結んで包囲網を形成し、氏綱は四面楚歌に陥った。1525年に里見氏の軍勢が鎌倉を襲撃され、鶴岡八幡宮が焼失している。

北条包囲網の崩壊

周囲を敵に囲まれ苦境に立たされた氏綱であったがこの状況を敵の内紛によって救われる。 里見氏で内訌が起き、里見義豊が叔父の実堯と正木時綱を粛清した。氏綱は実堯の遺児・義堯を援助して義豊を滅ぼさせ、里見氏が包囲網から脱落する。 小弓公方を擁立する真里谷武田氏でも内紛が起き、小弓公方の勢力が弱まることになった。
さらに上杉朝興が死去し、若年の上杉朝定が跡を継ぐと、氏綱は武蔵に出陣して扇谷上杉家の本拠河越城を攻略し、三男の為昌を城代に置いた。

武田家との対立と今川家からの独立

父・早雲の代より形式的には主従関係にあった駿河国の今川氏との駿相同盟に基づいて甲斐国の武田信虎と甲相国境で相争った。武田氏は、元々扇谷上杉家と友好関係にあり、武田軍が扇谷上杉家を支援するために北条領である相模国津久井郡に侵攻したり、反対に北条軍が武田領である甲斐国都留郡(郡内地方)に侵攻する対立関係であった。
1535年には今川家当主・氏輝の要請に応えて都留郡に出陣し、山中の戦いにおいて武田信虎の弟・信友を討ち取る大勝を収めている。1536年に今川氏輝が急死すると家督を巡って花倉の乱と呼ばれるお家騒動が起こり、氏綱は栴岳承芳を支持した。承芳が勝利して今川義元として家督を相続するが、1537年に義元は信虎の娘定恵院を娶って甲駿同盟を成立させる。氏綱はこれに激怒して相駿同盟が破綻し、今川との抗争が勃発した(河東の乱)。後北条軍は駿河国の河東地方(富士川以東)に侵攻して占領し、これにより、今川氏との主従関係を完全に解消して独立を果たした。

第一次国府台合戦

1538年に葛西城を攻略して房総への足がかりを築くと。小弓公方・足利義明はこれまで対立と和睦と繰り返しながらも全面的な対決を避け続けていたが、河越城の陥落に危機感を抱いた義明は葛西城の攻防において扇谷上杉家への援軍を派遣して全面的に対立する方向に向かった。

北条氏の房総進出は小弓公方と対立する古河公方の利害と一致するものであり、古河公方は氏綱に対し「小弓御退治」を命じた。
1538年、氏綱は小弓公方・足利義明と安房の里見義堯らの連合軍と戦が勃発(第一次国府台合戦)。
氏綱・氏康父子は足利・里見連合軍に大勝し、義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功した。
また、古河公方足利晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任した(非公式)。

氏綱の功績

内部整備

奉行衆や評定衆など内部組織を整備した。
小田原城を本城に伊豆国の韮山城、相模国の玉縄城、三崎城(新井城)、武蔵国の小机城、江戸城、河越城が支城となり各々領域支配の拠点となった。支城には伊豆入部以来の重臣や一門が置かれた。

職人集団

氏綱の時代に積極的にすすめられた築城や寺社造営のために職人集団を集めており、後北条氏は商人・職人に対する統制を行い年貢とは別に諸役・諸公事を課し、小田原城下の津田藤兵衛に発した藍瓶銭(藍染業者への賦課金)の徴収を許す享禄3年(1530年)付の虎の印判状が現存している。1538年には伊豆と相模の皮作(皮革を加工する職人階層)に触頭を置き、武具製作に不可欠な皮作を掌握した。

鎌倉鶴岡八幡宮の造営

里見氏に焼失された鶴岡八幡宮の造営事業を1532年行い、興福寺の番匠を呼び寄せて翌年から工事が着手された。氏綱は関東の諸領主に奉加を求めたが、両上杉氏はこれを拒否している。1540年に上宮正殿が完成し、氏綱ら北条一門臨席のもとで盛大な落慶式が催された。
この造営事業は氏綱の没後まで続き、完成は氏康の代の1544年になった。源頼朝以来の武門の守護神たる鶴岡八幡宮の再興事業を主導することは執権北条氏や鎌倉公方といった東国武家政権の政治的後継者を主張するに等しい意味を持っていた