伊豆・相模を平定し北条家を築いた「戦乱の梟雄」

北条 早雲ほうじょう そううん

北条早雲

北条早雲 肖像画

  ポイント

  • 室町幕府の役職についた名門出身
  • 客将として今川家の内紛を解決
  • 伊豆・相模を平定し北条家を築いた

誕生・死没

  • 誕生:1432又は1556年
  • 死没:1519年
  • 享年:88?、64?歳

名 前

  • 新九郎(通称)
  • 伊勢盛時(改名 )
  • 長氏、氏茂、氏盛、長茂、貞藤、貞辰(諱)

所 属

官職・役職

  • 官位:右京大夫

親 族

略 歴

● 生年1456年生まれとして記載する

1456年 1歳  備中国高越城で誕生する
 
1464年 9歳  足利義視の近侍となる。
 
1467年 12歳  姉妹の北川殿と駿河守護今川義忠が結婚
 
1471年 16歳  備中国荏原荘に「平盛時禁制」を発する
 
1473年 18歳  北川殿が龍王丸(後の今川氏親)を生む
 
1476年 21歳  駿河に下向して龍王丸派と小鹿範満派との家督争いを調停
 
1481年 26歳  文書での「伊勢新九郎盛時」の初見
 
1483年 28歳  将軍足利義尚の申次衆となる
 
1487年 32歳  将軍足利義尚の奉公衆となる
駿河に下り、駿河館を襲撃して小鹿範満を討つ
興国寺城主となる
 
1493年 38歳  伊豆堀越御所の茶々丸を襲撃(伊豆討ち入り)
 
1494年 39歳  扇谷方として武蔵国高見原に出兵する
今川氏の武将として遠江へ侵攻
 
1495年 40歳  甲斐に出兵して守護武田信縄と戦う
大森藤頼を討ち小田原城を奪取
 
1497年 42歳  伊豆平定
 
1498年 43歳  甲斐で茶々丸を捕捉して殺害する
 
1501年 46歳  今川家の武将として三河に出兵し、松平長親と戦う
 
1504年 49歳  立河原の戦いで山内顕定に勝利する
 
1506年 51歳  相模で初めて検地を実施
 
1512年 57歳  相模の岡崎城と住吉城を攻略
 
1516年 61歳  相模三浦氏を滅ぼす。相模平定
 
1518年 63歳  家督を嫡男氏綱に譲る
 
 
1519年死 没

概 要

備中の名門「伊勢」氏の出身といわれている。妹が嫁いだ今川家の家督調停に下向しこれを平定し発言力を持った。その後は今川部将のかたわら、伊豆・相模を平定し「北条家」として自立した。

出自の新説と定説

早雲といえば今までの定説では、伊勢の素浪人から一国一城の主にのし上がった下克上の典型的人物として見られてきた。しかし、近年の研究で、備中荏原(現在:岡山県井原氏)を領する伊勢盛定の子だった事がわかった。また伊勢氏は代々室町幕府の重職を務めた名門であったとされている。

今川家との縁

京で「応仁の乱」が起きると駿河守護・今川義忠も上洛して東軍に加わった。その時に今川義忠と幕府の伝達役を務めたのが早雲の父・伊勢盛定とされ、その縁で早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠と結婚したと考えられる。
ちなみに早雲はこの頃まだ父と同じ幕臣だった。

駿河下向

当時まだ幕臣だった早雲に転機が訪れるのは、妹の北川殿が輿入れした駿河の今川氏の内紛がきっかけである。
当時の今川家の当主は今川義忠(早雲義兄弟)だったが1476年、義忠は反乱軍の残党(斯波義廉の家臣?)の不意打ちに遭い、落命してしまう。
義忠の嫡男・竜王丸(早雲の甥)はまだ6歳と幼少だったため、小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立する動きがあり、家中が二分される家督争いになった。竜王丸を後見する母の北川殿を救援するため、兄の早雲は駿河に下向した。

家督争いを解決

小鹿範満側には関東の堀越公方や扇谷上杉家が味方し、龍王丸派にとって情勢は不利であった。
早雲は「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と双方を騙して調停を行い、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させ、両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。(この時に道灌と会談したという話もある)

しかし、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしなかった。早雲は再び駿河へ下り兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺害した。こうして龍王丸は元服し「氏親」を名乗り正式に今川家当主となった。
この功績が認められ早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられ、今川家の家臣としては甥である氏親を補佐した。

借金問題

早雲の駿河下向の要因について借金問題もひとつの要因として考えられています。備中国の細川京兆家臣・渡辺帯刀丞が早雲に金を貸したところ、この話がこじれ、訴訟に至ったというものである。この問題がどう決着したかは不明であるが、借金問題が早雲を京都から東国に向かわせる原因になったかもしれない。

伊豆夜討ち

1493年、早雲は今川氏の兵を借りて伊豆の堀越公方の茶々丸を滅ぼし伊豆を奪います。
(茶々丸は円満院と潤童子という堀越公方・政和の継母円満院と弟の潤童子を殺害して堀越公方の家督を強引に継いだことを大儀名分とし攻めた)「伊豆の討入り」である。
伊豆の討ち入りについては夜襲や、海賊に成りすまし船を使って攻めた又は兵が出兵し手薄になったのを好機として攻めた等諸説あります。
伊豆討入り詳細
いずれにせよ、この事件を期に関東での戦国期がより一層激しくなります。

さらに茶々丸を追った早雲は、さらに南下。深根城(静岡県下田市堀之内)の戦いで徹底的な残滅戦を行い女・子供・僧なども含む多数の城を城の周囲に晒したという。

小田原城攻略

伊豆を制圧した早雲は堀越御所の近くの小山に韮山城を築くと、ここを拠点にさらなる勢力拡大を図った。早雲が次に狙いをつけたのが伊豆の隣国相模国の小田原城だった。早雲は小田原城主の「大森藤頼」に贈り物を貢ぎ、藤頼と良好な関係を築きます。
そんなあるひ早雲は領内で鹿がりを行うのに際し、大森領内に追われた鹿を韮山方へ追い返すため、箱根山に勢子(山野の野生動物を追い出したり追い込んだりする役割の人)を入れてほしいと提案。藤頼はこれを快く承諾した。
1495年早雲は兵を勢子や犬飼に仕立てて箱根山に入れそれと同時に牛1000頭を箱根山中に入れた。その夜、勢子に扮した 早雲の兵が、牛の角に松明を灯し、犬を放って泣き声を上げさせた、犬に怯えた牛達は山中を駆け回り小田原城の背後に暗闇を埋め尽くすかのように軍兵の松明が灯ったように見えた俗にいう「火牛の計」である。
数万の兵が攻め寄せてきたと小田原の街は大混乱に陥り、藤頼は城を捨てて逃げ出していった。こうして早雲は難なく小田原城を手に入れた。

相模平定-両上杉家との対立-

小田原城を手に入れた早雲は、相模国の統一に動き出す。当時の相模国は「山内上杉」「扇谷上杉」の両上杉の対立の家中にあり、早雲はこの対立を利用して相模全土の攻略すすめていった。
また「北条記」には「二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる」という霊夢を早雲が見たという話が書かれている。これは二本の杉とは山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの早雲のことを思ったと考えられており、両上杉が倒れ、早雲が関東を治めるという事を暗示している。

長享の乱が勃発すると早雲にとって関東進出の大きな足がかりとなった。
1504年、武蔵立河原の戦いが起こると、扇谷家当主上杉朝良に味方した早雲は、今川氏親と共に出陣して山内顕定に勝利した。しかし、この敗戦後山内上杉家は越後守護上杉房能と同守護代長尾能景の来援を得て反撃に出る。相模へ乱入して、扇谷家の諸城を攻略。
河越城に追い込まれた朝良は降伏した。これにより、早雲は山内家、扇谷家の両上杉家と敵対することになる。

相模平定-相模全域を平定-

序盤こそ扇谷上杉家に押され小田原城まで追い込まれた早雲であったが、永正の乱が勃発すると、両上杉家の家中が混乱しいる隙に早雲は体制を立て直すことに成功する。
そして、1512年、扇谷上杉家方であ岡崎、住吉城を攻め立て、相模ほぼ全域を制圧、城主であった三浦道寸は三浦半島の先端の新井城に逃げ込んだ。早雲はさらに三浦道寸を攻略するため、鎌倉に玉縄城を築いた。
翌年になると三浦道寸は一族ともども新井城で篭城を開始。早雲は扇谷家援軍を幾度も撃退し、これに絶望した道寸は篭城3年目を迎えた1516年、城門を開いて打って出たが、主な武将はじめほどんどの将兵が討ち死にしたといわれる。
こうして北条早雲は、20年かけて相模征服を達成する。

先進的な領国政策

早雲は領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から、戦国大名の先駆けと評価されている。
1506年には、戦国大名として始めて検地を実施し、隣国より年貢を下げ、貫高制(土地から取れる年貢の量を貫文(銭)で換算し、軍役などの基準とした制度)実施し、実施するなど先進的な領国政策を行った早雲は飴と鞭を使いわけることによって、短期間に戦国大名にのし上がっていった。