早雲の時代から長老として一門の盛衰を見届けた

北条 幻庵ほうじょう げんあん

北条幻庵

北条幻庵肖像画

  ポイント

  • 北条早雲の四男
  • 北条早雲から氏直まで北条氏滅亡直前まで長老として君臨
  • 政治家、僧侶、馬術、弓術に優れた

誕生・死没

  • 誕生:1439年
  • 死没:1589年
  • 享年:97歳

名 前

  • 伊勢菊寿丸(幼名)
  • 北条長綱(初名)
  • 三郎(通称)、駿河守(通称)
  • 鞍打幻庵(あだ名)

所 属

親 族

北条早雲
善修寺殿(葛山家の娘)
兄弟 北条氏綱(兄) 、北条氏時(兄)
   葛山氏広(兄) 、 長松院殿(三浦氏員室)
時長(三郎) 、 北条綱重
  北条長順 、 女(吉良氏朝室)
  女(上杉景虎正室のち北条氏光室)
  上杉景虎

略 歴


1493年 0歳  早雲の4男として誕生
 
1519年 26歳  早雲から4400貫の所領を与えられる
 
1535年 42歳  甲斐山中合戦に参陣
武蔵入間川合戦に参陣
 
1542年 49歳  三浦衆と小机衆を指揮下に置く
 
1546年 53歳  河越合戦に参陣
 
1559年 66歳  家中一の5457貫67文の所領を領した
 
1560年 67歳  次男・綱重に家督を譲る
 
1569年 76歳  次男・綱重が戦死
家督を氏康の七男・北条三郎(上杉景虎)に譲る(景虎が越後入りしたため家督を孫・氏隆)
 
1569年 76歳  次男・綱重が戦死
家督を氏康の七男・北条三郎(上杉景虎)に譲る
 
1589年 97歳  死 没

概 要

早雲の四男。早雲の時代から北条氏滅亡直前まで長老として君臨した。幼少時代から箱根権現に入り第40世別当を務めた。その後は武将として活躍し主君・氏康の娘が吉良家に嫁ぐ際、「幻庵おほへ書」という心得書を与えた。

出 生

北条早雲の四男として誕生。幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺した。箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏敬されており、関東支配を狙う早雲が子息を送って箱根権現を抑える狙いがあったと見られる。
1519年、父から4400貫の所領を与えられ以後武将として活躍した。

僧侶としての活動

1521年に幻庵は江・三井寺に出家しその翌年には箱根権現の40世別当になったと思われ、1538年頃まで在籍していたと推測される。別当になった際に長綱と名乗っている。

武将としての活動

幻庵は政治家、僧侶としての活躍が目立つが、馬術や弓術に優れ、1535年のの武田信虎との甲斐山中合戦や上杉朝興との武蔵入間川合戦、1546年の河越城の戦いなどではは一軍を率いて合戦に参加して活躍している。
また、玉縄城主・北条為昌が死没すると、三浦衆と小机衆を指揮下に置くようになりその所領は家中で最大の5457貫86文の所領を得ていた。

悩まされた跡継ぎ問題

1560年、67歳になった早雲は長男が早死したため次男の北条綱重に家督を小机城を北条氏康の弟・北条氏尭に譲った。しかし程なくすると氏尭が没し、1569年に武田信玄との駿河の蒲原城の戦いにおいて次男・綱重、三男・長順らを相次いで失ったため、氏康の七男・北条三郎(後の上杉景虎)を養子に迎えて家督と小机城を譲り、隠居して幻庵宗哲と号した。同年に上杉家との同盟(越相同盟)が成立し、三郎が越後の上杉謙信の養子となったため、大甥である北条氏光に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・氏隆に継がせた。

最期と年齢に関して

小田原征伐の直前の1589年11月1日に北条家5代に仕えた老将・北条早雲は死去した。享年97歳であった。幻庵の死から9ヵ月後の1590年7月、後北条氏は豊臣秀吉に攻められて敗北し、戦国大名としての後北条家は滅亡した(小田原征伐)。

ただしこれは『北条五代記』の記述によるもので、現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれている。
黒田基樹氏は幻庵の生年を永正年間と推定している。その根拠として、1522年に兄・氏綱が箱根権現に棟札を納めた際、幻庵の名が菊寿丸と記されており、この時点で幻庵は当時の成人と見られる15歳未満だった可能性が極めて高いことを挙げている。これが事実とすれば享年は15年以上若くなる。
また、一説に1501年生まれという説がある。また、没年に関しても現在では疑問視されており、1584年、1585年などの説もある。

逸 話

教養人

文化の知識も多彩で、和歌・連歌・茶道[注釈 6]・庭園・一節切りなどに通じた教養ある人物であった。

鞍打幻庵

手先も器用であり、鞍鐙作りの名人としても知られ、「鞍打幻庵」とも呼ばれた。他にも一節切り尺八も自ら製作し、その作り方は独特で幻庵切りと呼ばれている。伝説によれば、伊豆の修善寺近郊にある瀧源寺でよく一節切りを吹き、滝落としの曲を作曲したとも云われている。

連歌や和歌

何度も歌会を催し『藤川百書』の相伝者である高井堯慶の所説に注釈書を著し、板部岡江雪斎に古今伝授についての証文を与えている。このように和歌への造詣の深さは当代一流であった。
また連歌にも長けており、連歌師の宗牧とは近江時代から交流を持っていた。

全ての当主に仕えた唯一の将

記録の残っている家臣では唯一、初代の北条早雲から5代氏直まで、後北条氏の全ての当主に仕えた人物である。庶民とも気安く接する度量があったという。

『幻庵おほへ書』

氏康の娘(吉良氏朝に嫁いだ)が嫁ぐ際に『幻庵おほへ書』という礼儀作法の心得を記した書を記しており、幻庵が有職故実や古典的教養に通じていた事は明らかであった。