二階堂家家臣。伊達政宗が主家を攻めると伊達家に内応した

保土原 行藤ほどはら ぎょうとう

片倉景綱

居城:保土原館

概 要

二階堂家庶流。保土原館主。伊達政宗が主家を攻めた際に内応し、以後は伊達家に仕える。大阪夏の陣で戦功をあげ、伊達家一門に扱われた。また、和歌や茶道に精通していたため、政宗に敬われて。

  ポイント

  • 保土原館城主で二階堂家家老
  • 伊達家に内応し伊達家に仕える
  • 和歌、茶道に通じ政宗から慕われた




誕生・死没

  • 誕生:1538年
  • 死没:1620年
  • 享年:82歳

名 前

  • 江南斎(号)
  • 左近(別名)

官位・役職

  • 上総守

親 族

養父 保土原兵部大輔行有
重行

略 歴


1538年 0歳  誕生
 
1560年 22歳  白河結城家から二階堂氏に願える
 
1581年 43歳  主君・二階堂盛義が死去
 
1589年 51歳  伊達家に願える
 
1614年 76歳  大阪の陣で戦功を挙げる
伊達家準一家に加わる
 
1620年 83歳  死 没




保土原家とは?

二階堂氏の庶流。二階堂盛藤の次男・藤顕が岩瀬郡保土原に住して保土原に改姓したとしたという。

二階堂家での活躍

「桶狭間の戦い」が起こった1560年、行藤の同僚である須田盛秀が、白河結城氏から新城備後守と須田源次郎を二階堂氏に寝返えらせた。
これに激怒した白河結城氏当主・結城晴綱はすぐに討伐軍を送った、行藤は二階堂氏側の援軍として派遣され、結城氏方を散々に打ち破り、先陣の白石刑部大輔は戦死、大将・新小萱篤綱にも重傷を負わせ、撤退させた。





白河結城家から二階堂家へ

1581年、主君・二階堂盛義が死去すると、盛義の正室・大乗院(伊達晴宗の長女)が城主となる。
その後、二階堂家と伊達家との対立が深まり、さらに二階堂氏家中でも、須田盛秀ら佐竹氏派と行藤ら伊達派に分裂した。
そんな中、1589年、蘆名家を滅ぼした伊達政宗が二階堂家討伐のため大軍を差し向けると行藤は政宗に内応し、須賀川城攻めの先陣を務めた。須賀川城落城後、矢田野義正の篭る大里城攻めにも参加したが撃退した。

伊達家での活躍

伊達氏の家臣となった行藤は朝鮮出兵に従軍、さらに大坂の陣では戦功を上げ、伊達準一家(329石)に列したとされる。

また、和歌に優れ、政宗に和歌を詠んで贈ったほか、茶道にも通じ嗜みの深い優雅な数寄者で、政宗と書状のやり取りを盛んに行うなど政宗にその才能を慕われたという。