輝宗・政宗親子に従い各地で戦功をあげる

後藤 信康はらだ むねとき

  ポイント

  • 湯目重弘の子で、後藤家を継ぐ
  • 「黄後藤」の異名をとり輝宗・政宗親子に従い各地で戦功をあげる
  • 全盛期では桃生郡大森城主となって2,500石を知行した

誕生・死没

  • 誕生:1556年
  • 死没:1614年
  • 享年:59歳

名 前

  • 孫兵衛(通称)、四郎兵衛(通称)、黄の後藤(あだ名)

官位

  • 肥前守

所 属

親 族

湯目重弘
養父 後藤信家
兄弟 湯目実広
後藤近元

略 歴


1556年 0歳  湯目重弘の二男として生まれる(後に後藤家の養子になる)
 
1582年 26歳  相馬表の合戦に参陣し戦功をあげる
 
1585年 29歳  関柴合戦に参陣する
 
1589年 33歳  摺上原の戦いに参陣して武功を挙げる
 
1591年 35歳  政宗の移封に従い原田城を離れ亘理郡坂元城主となる
 
1592年 36歳  朝鮮出兵に従軍する
 
1600年 44歳  関ヶ原の戦いでは白石城攻略戦で活躍
栗原郡宮沢城主となる
 
1602年 46歳  桃生郡大森城主となって2,500石を知行する
 
1605年 50歳  軍法違反のため改易される
 
1611年 56歳  罰が許され江刺郡三照に500石を与えられる
 
1614年 59歳  死 没

概 要

長井郡洲島城主・湯目重弘の二男として生まれた後に後藤信家の養嗣子となって後藤氏の家督を相続した。輝宗・政宗親子に従い各地で転戦し戦功を挙げる。黄色の母衣を用いたため「黄後藤」の異名をとった。

湯目家

信康の出自家。元は上野国片岡郡湯目郷(高崎市)の出自であり祖先を湯目資綱としている。

伊達氏に仕えたのは三代目・湯目重房とされている。
天文の乱の功績により湯目重久は津久茂館を与えられた。

蘆名家最前戦の守備の要として

後藤家の家督を継いだ信康は初陣として伊達輝宗に従って相馬義胤との合戦に出陣し、武功を挙げた。※エピソード有り

その後、伊達家を継いだ政宗が蘆名氏との同盟を破棄して会津に侵攻すると、信康は蘆名家に対する最前基地である桧原城の城代を任され、以後4年間同地の守備に就いた。この任務は過酷で敵の襲来に緊迫しつつも城を守るのは相当の激務であり、配下に逃散が相次いだとつたえられている。 桧原在番の間には、政宗の正室・愛姫より慰労の品として打掛(女性の着物の種類の一つ)を賜ったという。

所領移動

1591年、政宗が奥州仕置の件で豊臣秀吉により耶麻郡を没収された。
所領を失った信康は耶麻郡から亘理郡坂元城主に異動となる。
その後、葛西大崎一揆鎮圧戦では、宮崎城攻めで活躍しさらに佐沼城攻めでは旧大崎家臣・山上内膳を一騎打ちに下すなどの活躍した。※エピソード有り
1592年には朝鮮出兵が行われたため、政宗に従って朝鮮へ渡海した。

1600年の関ヶ原の戦いでは白石城攻略戦で活躍し、同年栗原郡宮沢城主となった。慶長7年(1602年)には桃生郡大森城主となって2,500石を知行した。

突然の改易と最後

1605年、信康は主君・政宗のご機嫌をそこなり、突然改易させられる。
改易の理由として、軍法違反を犯したためであるという。葛西大崎一揆の際の宮崎城攻めでの抜け駆け)
しかし、『小牛田町史』ではこれは10年以上も前のことである上に、この話自体に他の史料的な裏付けがないことから否定している。
その後、1611年にようやく罪がゆるされて復帰し、江刺郡三照に500石を与えられた。

しかし、その三年後の1614年8月8日に死没した。享年59歳だった。
家督は嫡男・近元が相続した。

逸 話

 「黄後藤」

合戦中は常に黄色の母衣(矢や投石から身を守る布でできた風船のようなもの)を着けて戦場に出陣したため、「黄後藤」と称されて恐れられたという。

 原田宗時

伊達家臣(同僚)に原田宗時という人物がいた。
信康は関柴合戦(伊達VS蘆名)での宗時の行動に対して非難をします。これに対し腹を立たてた宗時は信康に対して決闘を申し込みます。
これに対して信康は「このような事で死ぬくらいなら、御家のためにその命を使おうではないか」と諭した。これに感心した宗時は改心して、信康の義勇の大きさに敬服して、以後二人は固い友情で結ばれたという。

 宮崎城攻め

宮崎城攻めでは夜中にこっそり抜け駆けをして軍功を得ようとしたが、城に潜入したところ「えらい早駆けじゃのう」と声をかけられ振り向くと宗時が既に居り、二人で城門を破って味方を引き入れ城を落としたという。

しかし、これが後に軍紀違反と罰せられ政宗により改易させられてしまう。

 五島馬

青葉城の伊達政宗公が乗っている騎馬像の馬は、後藤信康が献上した馬で名を「五島」といった。
信康の部下に新蔵という馬の育て方がうまい者がいて、その中でも良く出来た馬を献上したと伝えられている。
政宗公は若い頃、戦に出かけるときはいつも五島に乗っていたが、大坂の陣のときはさすがの五島も老齢で、「此の度の戦は長旅になる、そちも老齢の故、今回は留守を申しつける」と言い残して政宗公は大阪に出発していった。
残された五島馬は、自分はもう昔のように政宗公のお役に立つことは出来ないのかと悲観し、馬屋を飛び出して崖から飛び降りて死んでしまったという。(出陣できなかった後藤信康が、抗議のために乗って飛び降りたという説もある)