24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と恐れられた

伊達 政宗だて まさむね

伊達政宗像

伊達政宗 肖像画

  ポイント

  • 伊達輝宗の嫡男
  • 24歳で奥州をほぼ制圧する
  • 伊達家を仙台藩60万石の大名へ押し上げた

誕生・死没

  • 誕生:1567年
  • 死没:1636年
  • 享年:70歳

名 前

  • 梵天丸(幼名)、政 宗
  • 藤次郎(仮名)、独眼竜(渾名)

所 属

官職・役職

  • 官位:従五位下左京大夫、侍従、越前守
  •      従四位下右近衛権少将、陸奥守
  •      正四位下参議、従三位権中納言
  •      贈従二位

親 族

  •  父 : 伊達輝宗
  •  母 : 義 姫
  • 正室 : 愛 姫
  • 側室 : 新造の方(飯坂宗康の二女)
  • 側室 : 飯坂の局(飯坂右近宗康の次女)
  • 側室 : 於山方(四保宗義の娘)
  • 側室 : 荘厳院(柴田信恒の娘)
  • 側室 : 勝女姫(多田吉広の娘)
  • 側室 : 妙 伴(村上政重の娘)
  • 兄弟 : 伊達秀雄(弟)
  • 兄弟 : 千子姫(妹)
  •  子 : 伊達秀宗、伊達忠宗(18代)
  •     宗清、宗泰、宗綱
  •     宗信、宗高、竹松丸
  •     宗実、宗勝、亘理宗根
  •     五郎八姫、牟宇姫
  •     岑姫、千菊姫、津多

略 歴

1567年 0歳  伊達輝宗の嫡男として誕生
 
1577年 10歳  元 服
 
1579頃 12歳  田村清顕の娘(愛姫)と結婚
 
1581年 15歳  相馬氏との合戦で初陣を飾る
 
1584年 18歳  家督を相続する
 
1585年 19歳  小手森城を攻め、人取橋の戦いに勝利
 
1586年 20歳  二本松畠山氏が伊達家に降伏
 
1887年 21歳  豊臣秀吉が惣無事令(私戦禁止令)を発令
 
1588年 22歳  大崎氏の内乱に介入するが失敗に終わる
蘆名家が伊達領に侵攻
 
1589年 23歳  摺上原の戦いで蘆名家を滅ぼす
 
1590年 24歳  小田原征伐に参陣
 
1591年 25歳  葛西大崎一揆を平定
米沢城72万石から58万石に減転封される
 
1593年 27歳  文禄の役に従軍し朝鮮に渡海
 
1599年 33歳  長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝が婚約。
 
1600年 34歳  関が原合戦
上杉景勝討伐軍として白石城を奪還する
 
1601年 35歳  仙台城の築城を開始
 
1613年 47歳  支倉常長ら一行180余人を欧州へ派遣(慶長遣欧使節)
 
1614年 48歳  大阪冬の陣に従軍
 
1615年 49歳  大阪夏の陣に従軍
 
1636年 70歳  江戸藩邸で病死

概 要

伊達家17代当主。輝宗の嫡男として誕生する、母は山形城主・最上家の娘。瞬く間に周辺諸国を制覇し24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と畏怖された。権謀術数で豊臣・徳川両政権を生き抜いた。

出生と幼少期

1567年9月5日、米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の長男として生まれる、幼名は梵天丸。母は山形城主・最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)から生まれた。

幼い頃に疱瘡にかかり右目の視力を失うと母の愛情は弟の竺丸に向けられ、梵天丸に愛情が注がれる事はなかった。失明により性格も消極的となり家臣の中からもその器量を疑う声が上がったいわれている。
しかし、父・輝宗と家臣の片倉景綱のみは梵天丸の武将としての才能・度量を見抜き大いに期待をかえたという。

元 服

1577年11月15日、梵天丸は元服して「伊達藤次郎政宗」と名付けられた。「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもの。
ちなみに、伊達家はそれまで足利将軍家から一字拝領を慣習としてきたが、政宗の元服時に将軍・足利義昭は織田信長によって京より追放されていたため一字拝領を求めなかった。

婚 儀

1579年、伊達政宗が13歳のとき、仙道の戦国大名であった三春城主・田村清顕の娘、当時12歳の愛姫を正室に迎えた。
伊達郡梁川城で輿の引継ぎが行われ、伊達成実・遠藤基信らに守られて、雪深い板谷峠を避け、小坂峠、七ヶ宿、二井宿峠を経て、米沢城に入輿した。

初 陣

1581年5月上旬、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で伊具郡に出陣、初陣を飾った。
また、このころから輝宗の代理として田村氏や蘆名氏との外交を担当していたとされる。

家督相続

1584年、ながらく続いていた伊達家の宿敵である相馬家との和睦を機に、政宗の父・輝宗は隠居を決意し政宗に家督を譲った。(隣国の当主の不慮の死とそれにともなう混乱を見て、こうしたリスクを回避するために自分が健在のうちに次の当主への交代を決めたとされている)
このとき政宗は若すぎることを理由に断ったが、一門・重臣の勧めを受けて家督を譲り受けた。この頃になると親族や家臣の間でも政宗の評価は高く、若すぎる相続に異論を差し込む声は起こらなかった。

奥州制覇

政宗は家督を相続すると、田村氏の要請を受けて、小浜城主・大内定綱、二本松城主・畠山義継へ侵攻していった。これを機に大内側についていた会津の蘆名家とも関係が悪化していった。

 大内・二本松攻略
1585年、政宗は大内領小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめとして撫で斬りを行い、城中の者を皆殺しにした。
勝ち目が無いと考えた二本松義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5か村のみを二本松領として安堵されることになった。
ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出たところを拉致される。当時鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害したという。
 人取橋合戦
政宗はその後、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲。二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と安達郡人取橋で激突した。
数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、政宗自身も矢玉を浴びるなど危機的状況に陥ったが、殿軍を務めた老臣・鬼庭左月斎の捨て身の防戦によって退却に成功し、翌日の佐竹軍の撤兵によりかろうじて窮地を脱した(人取橋の戦い)。
 二本松家攻略と佐竹・蘆名家との戦い

1586年、政宗は自ら出馬して二本松城を包囲、畠山氏は当主・国王丸を立てて必死に抵抗したが国王丸は降伏を決意し二本松城を明け渡して会津の蘆名氏のもとに亡命することとなった。これによって二本松畠山氏は事実上滅亡した。

その後、政宗は佐竹氏やほかの南奥州諸侯との和議を進め、いったんは平和を回復した。
ところが、蘆名家当主・亀若丸がわずか3歳で急死すると、佐竹義重は自分の子である義広を蘆名氏の当主に擁立した。しかし、政宗はこれに反対し、佐竹氏との全面対決を行うことになる。

 大崎家の内乱に介入

蘆名・佐竹家との間で睨みあいが続く最中伊達家の北に位置する大崎家で内乱が発生した。政宗はこれに介入し兵1万を侵攻させたが、大崎方の必死の抵抗に遭い敗北した。
さらに政宗への反感を強めていた伯父・最上義光が義光の義兄・大崎側に立って参戦し、伊達領各地を最上勢に攻め落とされた(大崎合戦)

そんな中、大崎合戦に乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻して苗代田城を落とされてしまう(郡山合戦)。
しかし、南方戦線において伊達成実による大内定綱の調略が成功、最上氏とは間に母・義姫が入り停戦が成功、政宗は体勢の立て直し行った。7月、最上氏および蘆名氏と和議が成立して窮地を脱し、愛姫の実家・田村氏領の確保に成功した(田村仕置)。

 蘆名家攻略

1589年、岩城常隆が相馬義胤と手を結び田村領に侵攻を開始した。政宗はこれを撃退するため出陣するが、蘆名方の片平親綱(大内定綱の弟)が政宗に帰順したと知ると、方向を一転して会津方向に向かうことになる。
そして、蘆名家を摺上原の戦いで破り蘆名家を滅亡させた。このころになると惣無事令を遵守して奥州への介入に及び腰になっていた佐竹氏側から結城義親・石川昭光・岩城常隆らが次々と伊達方に転じて政宗に服属し、なおも抵抗を続けていた二階堂氏などは政宗により滅ぼされた。
このときの伊達領は東は三春から西は越後後、北は出羽から南は白河にわたる大版図を築いた。これに加え上述の白河結城氏ら南陸奥の諸豪族や、また現在の宮城県北部や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあり奥州をほぼ制覇していた。