足利 成氏あしかが しげうじ

足利成氏の墓
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  ポイント

  • 鎌倉公方5代目・古河公方初代当主
  • 関東管領・上杉憲忠を謀殺し享徳の乱を引き起こす
  • 鎌倉を占拠され古河に本拠を構える「古河公方」
  • 最終的には幕府・上杉と和睦する

誕生・死没

  • 誕生:1438年
  • 死没:1497年
  • 享年:64歳

名 前

  • 永寿王丸(幼名)
  • 万寿王丸(幼名)

所 属

官職・役職

  • 第5代鎌倉公方
  • 初代古河公方

親 族

略 歴

1438年…足利持氏の四男として誕生
 
1441年…父・持氏が結城合戦で敗北。幼児だったため京に連行される
 
1450年…山内上杉家の長尾景仲と扇谷上杉家の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が勃発
 
1451年…従四位下左兵衛督に昇進
 
1454年…関東管領・上杉憲忠を謀殺(享徳の乱勃発)
 
1455年…武蔵分倍河原の戦いで、上杉憲秋・扇谷上杉顕房を戦死させる
今川家が鎌倉を占拠したため、成氏は古河に本拠地を構える
 
1457年…武蔵分倍河原の戦いで、上杉憲秋・扇谷上杉顕房を戦死させる
今川家が鎌倉を占拠したため、成氏は古河に本拠地を構える
 
1458年…幕府は一族の足利政和を鎌倉公方として東下させ伊豆に堀越公方を設置する
 
1471年…伊豆の堀越公方を攻めるが、敗れて古河城に撤退する
上杉勢の長尾景信に攻められ佐倉の千葉孝胤の元に退避した
 
1472年…古河城に帰環する
 
1476年…山内上杉家内で、長尾景春の乱が発生
 
1478年…上杉との和睦交渉が成立
 
1483年…幕府との和睦交渉が成立
 
1489年…死去

概 要

五代鎌倉公方・初代鎌倉公方。永享の乱で父・持氏が自害。結城合戦に捕らえられたが幼少のため許され京に幽閉された。その後、鎌倉府の復興に伴い五代目鎌倉公方となった。しかし、1454年に関東管領。上杉憲忠を父の仇として討つ。後に幕府の追討を受けて下総古河に移り、古河公方と呼ばれた。

出 自

幼名は永寿王丸(永寿丸)(諸説あり)
生年に関しても、永享6年(1434年)あるいは永享10年(1438年)とする解説が混在しており、現在広く用いられている解説を整理すると、主に次の2つになる。 一つ目の説では、1441年の結城合戦にて、安王丸・春王丸の他にも持氏遺児の4歳の童が捕えられたが、京都への連行中に第6代将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)ため、処分が実行されず、幸運にも生き延びた(『建内記』)。
この4歳の童を成氏とみなす。逆算すると生年は永享10年となる。その後、1449年8月に、京都の土岐持益邸にいた持氏の遺児が鎌倉に向け出立(『草根集』)し、鎌倉公方となったとする。

百瀬今朝雄は以上の通説を再検証し、宝徳元年8月に京都から鎌倉に向けて発った人は、成氏ではなく弟の尊敒であるとした。佐藤博信も、尊敒を定尊と見直しているが、成氏の弟とする点では同様の見解である。成氏本人は京都ではなく信濃から、文安2年(1445年)あるいは3年(1446年)に鎌倉に還御して鎌倉公方となり、宝徳元年6月から8月に元服したとする。佐藤はさらに、鎌倉公方就任を文安4年(1447年)3月、鎌倉帰還を同年8月27日と特定した。

百瀬以降の研究成果に従えば、幼年期の経歴は次の通り。成氏は第4代鎌倉公方足利持氏の男子として、永享6年頃に生まれた。成氏がまだ幼い永享11年(1439年)に、父持氏は関東管領上杉憲実・6代将軍足利義教と対立した結果、兄の義久と共に敗死(永享の乱)し、鎌倉公方は廃止された。その後、成氏は信濃佐久郡の大井持光の元で養われる。

同12年(1440年)3月に結城合戦が始まり、嘉吉元年4月に下総結城城が陥落した時に、持氏遺児の安王丸・春王丸・成氏の弟の3人が捕えられたが、成氏本人は戦場にはいなかった。この時、兄の安王丸・春王丸は殺された。やがて、成氏は文安4年3月に鎌倉公方となり、8月に信濃から鎌倉に帰還した。後に宝徳元年に元服、すなわち、6月頃に8代将軍足利義成(後の義政)の偏諱(「成」の一字)を与えられて「成氏」という名が決まり[6]、8月27日に左馬頭に任じられ、同時に従五位下に叙された。

鎌倉府再興と第5代鎌倉公方就任

永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、嘉吉元年に将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)後、鎌倉府再興の運動が開始された。越後守護の上杉房朝や関東諸士から室町幕府への働きかけ(『鎌倉大草紙』)、あるいは上杉氏一門、家老から幕府への働きかけ(『永享記』)、幕府管領の畠山持国の支持などの結果、文安6年(または宝徳元年)に鎌倉府再興が承認される。持氏の遺児の成氏は信濃の大井持光(または京都の土岐持益)の元から、新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。まだ年若い成氏は、鎌倉府再興のために運動した持氏旧臣や持氏方諸豪族、及び結果的には持氏を殺した上杉氏など、利害が相反する人々の間に置かれることになった。
また、新しい鎌倉府では、鎌倉公方に成氏、その補佐役の関東管領に山内上杉家の上杉憲忠(上杉憲実の嫡男)が就任した。

江の島合戦

鎌倉府再興後も、成氏の元に集まった旧持氏方の武将・豪族等と、山内・扇谷上杉家の両上杉氏との緊張関係は改善されなかった。1450年には、山内上杉家家宰の長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家家宰の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。
成氏は鎌倉から江の島に避難し、小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱らの活躍により、長尾・太田連合軍を退けた。なお、この時上杉方の一部も成氏に加勢している。従って、この襲撃は長尾・太田両氏が主導したが、上杉氏の本意ではなかったと考えられる。

難を逃れた成氏は、上杉憲実の弟である重方(道悦)の調停により、合戦に参加した扇谷上杉持朝らを宥免したが、長尾景仲・太田資清との対決姿勢は崩さず、両者の処分を幕府に訴えた。幕府管領畠山持国は成氏の求めに応じて、上杉憲実・憲忠に対して、鎌倉帰参を命じ、関東諸士及び山内上杉家分国の武蔵・上野の中小武士に対して成氏への忠節を命じた。また、江の島合戦の成氏側戦功者への感状を取り計らうなどしたが、長尾・太田両氏への処罰はあいまいにされた。結局、成氏自身は8月4日に鎌倉へ戻り(『喜連川判鑑』)、上杉憲忠は10月頃に関東管領として鎌倉に帰参した(『鎌倉大草紙』)。

享徳の乱

1454年12月27日に、成氏は関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。
京都では東国から事件の報せが届いた時、父を死に追いやった上杉氏への恨みが原因とみなされた(『康富記』)が、実際には鎌倉府内部の対立が大きな要因と考えられる。
この憲忠謀殺をきっかけとして、以後約30年間に及ぶ享徳の乱が勃発する。

武蔵分倍河原の戦い

1455年正月に、成氏は上杉勢の長尾景仲・太田資清を追って鎌倉を進発した[16]。正月廿一日(21日)・廿二日(22日)の武蔵分倍河原の戦いでは、上杉憲秋・扇谷上杉顕房を戦死させた[17]。3月3日には、成氏は下総古河に到着しており、さらに各地を転戦する。敗れた上杉勢が常陸小栗城に立て籠もると、成氏はさらに攻め立てて、小栗城を陥落させた(『鎌倉大草紙』)。

古河公方の設立

山内上杉家は、憲忠の弟・房顕を憲忠の後継とし、体制の立て直しを図った。室町幕府は上杉氏支援を決定し、享徳4年4月に後花園天皇から成氏追討の綸旨と御旗を得たために、成氏は朝敵となる。
房顕は上野平井城に入り、越後上杉氏の援軍と小栗城の敗残兵が、下野天命(佐野市)・只木山に布陣した。成氏はに、天命・只木山の西にある現在の足利市に布陣して対抗したが、7月には小山に移動している。一方、駿河守護今川範忠は、上杉氏の援軍として4月3日に京都を発ち(『康富記』)、6月16日には鎌倉を制圧した(『鎌倉大草紙』)。

その後、成氏は鎌倉を放棄し、下総古河を本拠地としたので、これを古河公方と呼ぶ。享徳4年6月に古河鴻巣に屋形(古河公方館)を設け、長禄元年(1457年)10月には修復が終わった古河城に移った(『鎌倉大草紙』)。古河を新たな本拠とした理由は、下河辺荘等の広大な鎌倉公方御料所の拠点であり、経済的基盤となっていたこと、水上交通の要衝であったこと、古河公方を支持した武家・豪族の拠点に近かったことなどが挙げられている。古河公方側の武家・豪族の中でも、特に小山持政は成氏が後に兄と呼ぶ(兄弟の契盟ほど強く信頼しており、同様に強固な支持基盤となった結城氏の存在とあわせて、近接する古河を本拠とする動機の1つになったと考えられる。更に成氏の兄弟で勝長寿院門主であった成潤も自らが別当を兼務する日光山に対抗する姿勢を見せている。

成氏は幕府に対して、これは上杉氏との抗争であり、幕府には反意がないことを主張したが、回答は得られなかった。京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す。

成氏勢と上杉勢の対峙

上杉勢は、康正元年12月に下野天命・只木山の陣が崩壊し、1456年9月の武蔵岡部原合戦でも敗退したが、長禄3年(1459年)頃に五十子陣を整備し、さらに河越城(川越城)・岩付城(岩槻城)・江戸城などの攻守網を完成させた。

一方、成氏も古河城を中心として、直臣の簗田氏を関宿城、野田氏を栗橋城、一色氏を幸手城、佐々木氏を菖蒲城に置くなど攻守網を形成し、両者が拮抗するようになった。

1458年、室町幕府は成氏に対抗するため、将軍義政の異母兄政知を新たな鎌倉公方として東下させた。政知は伊豆堀越にとどまり、ここに御所をおいたので、堀越公方と呼ばれる。以後、おもに下野・常陸・下総・上総・安房を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家勢力とが、関東を東西に二分して戦い続ける。武蔵北部の太田荘周辺と、上野東部が主な戦場であった。

この間、幕府は五十子へ諸大名に命じて征討軍を派遣しようとしたが、斯波義敏は命令違反で追放され(長禄合戦)、結城直朝のいる奥羽では国人達が抗争を繰り返しており、今川範忠の駿河帰還等もあって編成は思う様に進まなかった。堀越公方の軍事力強化を図り、政知の執事・渋川義鏡の子・義廉に斯波氏を相続させるも、義鏡が扇谷上杉家と対立、失脚してしまいこちらも失敗した。1465年に幕府は今川義忠と武田信昌に関東出陣を命じたが、両者がこれに従ったかは不明。

享徳の乱終結

1471年3月、成氏は小山氏・結城氏の軍勢と共に遠征して、伊豆の堀越公方を攻めたが、敗れて古河城に撤退した(『鎌倉大草紙』)。この遠征失敗の影響は大きかった。幕府の帰順命令に、小山氏・小田氏等の有力豪族が応じるようになった[29]ため、古河城も安全ではなくなり、5月に上杉勢の長尾景信が古河に向けた総攻撃を開始すると、本佐倉の千葉孝胤の元に退避した(『鎌倉大草紙』)。しかし上杉勢も古河城に入るだけの力がなく、文明4年には千葉孝胤、結城氏広、那須資実や弟の雪下殿尊敒の支援により、成氏は古河城に帰還し、後に小山氏も再び成氏方に戻った。

一方、1476年、山内上杉家では家宰の後継争いが原因となり、長尾景春の乱が発生した。1477年、長尾景春は武蔵鉢形城を拠点として上杉勢の五十子陣を攻撃し、これを破壊したため、対古河公方攻守網が崩れる。最終的に景春の反乱は扇谷上杉家家宰の太田道灌の活躍によって鎮圧されるが、上杉氏の動揺は大きかった。古河公方勢との戦いだけではなく、上杉家内部の対立や山内・扇谷両上杉氏間の対立が大きな問題となったのである。

文明10年(1478年)正月に成氏と上杉氏との和睦が成立すると、長年難航していた幕府との和睦交渉も、越後守護上杉房定が幕府管領細川政元との仲介に立つことで進展し、1483年1月6日に古河公方と幕府の和睦が成立した。これを「都鄙合体」と呼ぶ。この結果、堀越公方足利政知は伊豆1国のみを支配することとなり、政治的には成氏の鎌倉公方の地位があらためて幕府に承認されたと考えられる。

この間、幕府は五十子へ諸大名に命じて征討軍を派遣しようとしたが、斯波義敏は命令違反で追放され(長禄合戦)、結城直朝のいる奥羽では国人達が抗争を繰り返しており、今川範忠の駿河帰還等もあって編成は思う様に進まなかった。堀越公方の軍事力強化を図り、政知の執事・渋川義鏡の子・義廉に斯波氏を相続させるも、義鏡が扇谷上杉家と対立、失脚してしまいこちらも失敗した。1465年に幕府は今川義忠と武田信昌に関東出陣を命じたが、両者がこれに従ったかは不明。

晩 年

都鄙合体の後、成氏は朝敵の汚名から解放され、嫡男の政氏の名前も将軍義政から一字を譲り受けた。成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。しかし、その後も古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)勃発など不安定な状態が続き、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。長享3年(1489年)の文書に政氏の証判が見られることから、この頃には家督を譲っていたとも考えられている

。 明応6年(1497年)9月晦日(30日)死去。64歳であったとされる。法名は「乾享院殿久山道昌」(『古河公方系図(続群書類従)』)。
臨終の際には嫡子の政氏を呼び、「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻すことが孝行である。何にも勝る弔いになる。」と言い残したとされる(『鎌倉公方九代記』)。