両上杉と結び北条家に対抗するが失意の内に隠居する

足利 政氏あしかが まさうじ

足利政氏肖像画

  ポイント

  • 古河公方2代目当主
  • 足利成氏の嫡男
  • 上杉と同盟を結び北条家に対抗する
  • 息子2人と対立し失意のうちに隠居する

誕生・死没

  • 誕生:1462年
  • 死没:1531年
  • 享年:69歳

名 前

  • 道長(法名)

所 属

官職・役職

  • 2代目古河公方

親 族

略 歴

1462年…足利成氏の嫡男として誕生
 
1487年…長享の乱が勃発し山内上杉に味方する
 
1489年…父・成氏に変わり家督を継ぐ
 
1496年…山内上杉顕定と共に扇谷上杉朝良と戦う(享徳武蔵柏原合戦)
 
1504年…北条早雲・今川氏親連合軍と戦う(武蔵立河原の戦い)
 
1505年…弟の顕実を上杉顕定の養子に入れる
 
1506年…嫡男・高基と対立するが
 
1510年…再び高基と対立し古河城を追われ、家督を譲り小山氏の元へ落ちのびる
次男・義明が独立し小弓公方を名乗る
 
1531年…埼玉県久喜市で死没する

概 要

足利成氏の嫡男として生まれた政氏は北条氏に対抗して古河公方の勢力維持に務めながら、その方針が原因で2人の息子と争うことになった不運の武将である。

家督相続

初代古河公方・足利成氏の嫡男として誕生する。
延徳元年(1489年)、父・成氏から家督を譲られ、古河公方を継承する。父と同様に8代将軍・足利義政(前名・義成)より偏諱を受け、政氏と名乗る(9代将軍・足利義尚は、政氏継承直前の同年3月に亡くなっていた)。

長享の乱

永享の乱が終結すると、今度は扇谷・山内の両上杉家が対立するようになる。(長享の乱)
政氏は扇谷上杉家を支持したが、上杉定正の死去により扇谷上杉家が弱体化すると山内上杉家支持に転換した。
明応5年(1496年)の武蔵柏原合戦では山内上杉顕定と共に扇谷上杉朝良と戦う。永正元年(1504年)の武蔵立河原の戦いでは伊勢盛時(北条早雲)・今川氏親とも戦っている。

1505年、両上杉氏の和睦が成立し、政氏も弟の顕実を上杉顕定の養子に入れるなど両上杉家と手を組んで新興勢力である北条早雲に対抗しようとした。

永正の乱

両上杉家と同盟を結び北条家に対抗しようとした政氏だが、嫡男の高基がこの方針に真っ向から反対し、対立する。
1506年,両上杉家仲立ちでいったん和解したが1510年顕定敗死後の後継ぎを巡り、再び対立(早雲の計略といわれている)さらに次男・義明とも対立し、小弓御所として独立されてしまう(永正の乱)。簗田氏(簗田高助ほか)や宇都宮氏に支持された高基との争いに敗れ、古河城を失い、小山氏の下に落ち延びた。

家督授与と最期

高基と不利な形で和睦することを余儀なくされ、公方の位を譲り、出家して道長(どうちょう)と号し、小山氏の庇護も受けられなくなり上杉朝良を頼って武蔵久喜の館に引退した。
政氏はこの館に永安山甘棠院を開山。永正17年(1520年)には古河城を訪れ、高基と面会している。
享禄4年(1531年)、久喜で没した。

失意の将

政氏は太田道灌謀殺後の両上杉氏の対立に際し、父・成氏の路線を引き継ぐ事により、関東における武家の棟梁たる地位の維持に努めようとしたが、その路線が裏目に出て、自身が息子達と対立する事態に陥ってしまった。そして、その間に後に古河公方家を没落させる事になる後北条氏が関東に着々と進出してくるのである。

連歌の達人

連歌師・猪苗代兼載との交流は特筆される。兼載は晩年に公方侍医の田代三喜の治療を受けるために古河を訪れ、永正7年(1510年)に亡くなるまで滞在した。兼載が政氏を詠んだ歌が残されており(句集「園塵」)、その内容から兼載自身が「殿中」に伺候したことが分かる。兼載は書物も政氏に献上した。「景感道」、「連歌四十四条書」、小句集「古川(古河)公方様江進上連歌」である。政氏と兼載は連歌の師弟関係であると評価されている。