幕府が正式に認めた古河公方最後の当主

足利 晴氏あしかが はるうじ

足利晴氏の五輪塔
写真:日本全国歴史的 人物の墓を巡る旅

  ポイント

  • 4代目古河公方城主
  • 父・高基と対立、これに勝利し古河公方の地位を確立する
  • 第一次国府台合戦で北条と同盟し小弓公方・足利義明を滅ぼす
  • 河越夜戦で大敗し、古河公方として権力を失う
  • 北条氏に古河城を攻められ小田原に幽閉されてしまう

誕生・死没

  • 誕生:1508年
  • 死没:1560年
  • 享年:53歳

名 前

  • 亀若丸(幼名)

所 属

官職・役職

  • 第4代古河公方
  • 官位: 従四位 左兵衛督

親 族

略 歴

1508年…足利高基の嫡男として生まれる。
 
1531年…関東享禄の内乱を経て、古河公方の地位を確立する
 
1538年…第一次国府台合戦で北条氏綱と同盟し小弓公方を滅ぼす
 
1546年…河越夜戦で北条家に破れ権力が落ちる
 
1554年…北条家に古河城を攻められ相模国波多野(神奈川県秦野市)に幽閉される
 
1557年…古河城に復帰し、北条氏への反旗がバレ再び拘束される。
 
1560年…死 去

概 要

足利高基の子で古河公方という影響力を持っていた最後の当主。足利家の一門として関東武士の間に根強い支持があり北条家も懐柔に注意を払った。後に北条氏康に反抗したため、小田原に幽閉された。

幼少期

1508年、足利高基(初名は高氏)の嫡男として生まれる。幼名は亀若丸。後に将軍足利義晴から偏諱を受けて晴氏を名乗る。

第一次国府台合戦

1538年の第一次国府台合戦で北条氏綱と同盟し、父の高基の代から敵対していた叔父で小弓公方を自称していた足利義明を滅ぼした。『伊佐早文書』によれば、晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任したという。
なお、同年期の賛をもつ「雪嶺斎図」(五島美術館蔵、重要美術品)では、晴氏が図上に題字と花押を書し、建長寺第172世麟仲祖祥、同170世貞芳昌忠、同175世九成僧菊らが詩をしたため、画層僊可が絵を描いており、晴氏の教養や交友の一端が見て取れる

北条家との対立

北条氏綱の死後、北条家から上杉家へと路線変更した晴氏は北条氏綱の後を継いだ北条氏康と敵対し、関東管領上杉憲政や上杉朝定と同盟を結んび連合を組み北条領へ侵攻するが、河越夜戦で大敗すると、古河公方としての力を失ってしまう。
そして命は助けられたものの、1552年に公方の座を子の義氏に譲ることを余儀なくされた上で、1554年には古河城を攻められ、氏康によって相模国波多野(神奈川県秦野市)に幽閉された。

北条家への反抗と最期

1557年7月、古河城復帰を許されたが、嫡男・藤氏とともに古河御所奪還を試みるが失敗。晴氏は再び拘束され、栗橋城主・野田氏のもとに預けられた。
1560年5月27日、元栗橋(茨城県五霞町)の「嶋」にて死去した。享年53。