更なる勢力拡大へ

盛氏隠居後は、盛氏は南陸奥の覇権確立のため、石川・田村・常陸佐竹氏の諸勢力と抗争を繰り広げた。またこの頃から佐竹氏が南陸奥に進出してきたことで、蘆名家との間に緊張関係が高まっていた。
1563年年になると須賀川城主・二階堂盛義と戦い岩瀬郡へと進攻する、伊達家が二階堂家救援のため、攻め込んでくるが、戸山城主・穴沢信徳がこれを撃退した。そして1566年、二階堂盛義が嫡男・盛隆を人質に出して降伏したため、盛興の正室に晴宗の四女・彦姫を迎える条件で蘆名・伊達間でも講和が成立した。1574年には伊達実元と共に田村氏傘下の二本松義国・大内義綱を破り田村清顕を従属させる事に成功し蘆名家の全盛期を迎える。

後見人としての復帰

1575年、当主・盛興が29歳の若さで急死する。盛興には嫡男がおらず、さらに盛氏にも男子がいなかったため、人質としていた二階堂盛義の子・盛隆に盛興未亡人を娶らせて蘆名家の家督を継がせた、盛氏は向羽黒山城から再び黒川城へ戻り。盛隆の後見人をすることになった。 盛氏は盛隆に鼓を習わせており、盛隆の腕前が上達していることを他国へ報じたりと色々と気を使っていたという。
その後も盛氏は、女婿・結城義親を支援して白河結城氏の家督相続問題に介入したり、上杉謙信死後の混乱(御館の乱)に乗じて、越後に出兵するなど積極攻勢を続けた。

 晩 年 

盛氏の晩年になると、二階堂氏出身の新当主・盛隆に反発する重臣たちとの不和や、長年にわたる田村・佐竹との抗争による戦費の不足などにより、蘆名氏は徐々に最盛期の力を失いつつあった。
盛氏本人も、足腰が弱って歩行もままならず、一日中、囲炉裏に座っていたという。娘婿の結城義親に宛てた書状の中には、「渦中の者は参会申す事これなく候」と家中の誰も面会に来ないと嘆いていたという。
そして、1580年6月17日に亡くなった。

 逸 話 

家中禁酒令

盛氏は生涯に2度家中に禁酒、さらに領内に酒造禁止を命じている。1度目の理由はわかっていないが、2度目は1575年に嫡男・盛興の死因が酒に関係していたからだといわれている。